『はだしのゲン』について

『はだしのゲン』閲覧制限を撤回 松江市教育委員会

小学生の頃、毎年のように夏休みの宿題で「身近な人に戦争体験を語ってもらって、それを作文にしなさい」みたいのが出た。

1年生とか2年生とかのわたしには、おばあちゃんもおじいちゃんもあんまり沢山は話してくれなかった。おじいちゃんひどかった。「おぼえてないなあ」「しらんなあ」くらいしか言わない。非協力的なこと甚だしい。宿題にならないよう、と言っても「祖父は『記憶にございません』と言っている、と書いとけばいい」みたいな感じ。

それじゃあキョウコが困るだろうと思ったのかどうか、おばあちゃんはもう少し話してくれた。毎年、お墓参りに行くでしょう?あのお墓にはおまえの「おじさん」が眠っているんだよ。「おじさん」は10歳になるかならないかくらいで小児がんで亡くなった。戦争中じゃなければもう少しちゃんとした治療が出来ただろう。そういう話。

5年生とか6年生とかになった頃、もう少しいろいろな話をしてくれるようになった。お墓に眠る「おじさん」とは別に、裏庭にはもう一人「おじさん」がいたのだが、その「おじさん」が実はおばあちゃんとおじいちゃんのお子ではなくて、遠い遠い親戚のところからやってきた人だった、というのを知った。お父さんが兵隊さんになって戦争に行っている間にお母さんがいなくなってしまって、それで引き取ったのだと(最初は)聞いた。

「いなくなった」というのが、死んじゃったとかそういうことではなく別の男の人と出奔してしまって、何十年か後になって瀬戸内海のどこそこにいるというのが分かった、というのを知ったのはだいぶ大人になってから。その「おじさん」の口から直接聞いたのだった。周囲の大人たちの誰一人として、そんな話はわたしにはしなかった。

更にもう少し大きくなった頃、更にもう少しいろいろな話をしてくれるようになった。おばあちゃんは長崎の大村というところの出身なのだけれども。おばあちゃんとおじいちゃんの出会いというのは(伯母たちの話を聞く限り)それはそれはロマンティックでドラマティックなもので、まあ諸々あっておばあちゃんはおじいちゃんが局留めで送ったという東京行きの片道切符だけを持って、家出同然で東京(正確には最初は横浜)へやってきて、おじいちゃんのおよめさんになって、

「親に居場所が見つかって、どさくさにまぎれて居座られたらどうしよう、って、それが一番こわかった」とおばあちゃんは言っていた。

それからおじいちゃんが亡くなって、何年かしたらおばあちゃんの口がかるうくなった。おじいちゃんはもともと「お役所」に勤めていたのだけれど、何やらあってある日「ああちゃん(おじいちゃんの、おばあちゃんへの愛称)、ぼく辞めたから」って突然辞めてしまって、それから少しして第二次大戦が始まってしまって、それでおばあちゃんは「ああ、それでお辞めになったんだわ」(おばあちゃんはおじいちゃんには常に敬語だった)と合点した。

でもお辞めになったのは良いけれど、それから半年くらい全然おうちにお金入れてくれなくって困った、というような話。おじいちゃんがお役所を辞めた途端に、近所の人たちの態度ががらっと変わった、というような話。女の子ばかり生まれてもお国の役に立たない、と面と向かって言われた、というような話。

おじいちゃんは竹槍訓練を忌み嫌っていて、「『ニシダさーん!ニシダさーん!訓練始まりますよ!』って近所の人が迎えに来ても、おとうさんは『ああちゃん行くな、絶対に行くな。腹が減るだけ不合理だ』って許してくれない。行かなきゃ行かないでいじわるされるし」、というような話。

「空襲よりもご近所が怖かった。戦争が終わったらご近所がころっと変わったのも怖かった」「空襲、ほんとに怖くなかったの?」「オトウサンが『死ぬ時はみんな一緒だ』とおっしゃったし怖くなかった。オトウサンの親戚は(子どもたちを)疎開させろ、疎開させろってしつこく言ってきたけれど。『みんな一緒に死にます』ってぜんぶ断った。それにオトウサンが防空壕を掘ってくだすったし」。


わたしは『はだしのゲン』を読んだことなんか一度もない。ここ数週間で、初めて「読んでみてもいいかなあ」と、ほんのちょっと思ったくらいで。「閲覧制限?イイネ!」って。

小学校の学級文庫にあった。漫画のくせに学級文庫にあるっていう、先生が「読みなさい」って言ってるっていう、それだけでもうげんなりして読む気が失せる。だって仕方がない。そういうふうに育っちゃうおうちで育っちゃったのはわたしのせいじゃない。記憶にございません。

別のところに書いたのを、こちらに保存しました。