–– 先生、私はその考えには反対です。
–– 君が私の意見に賛同する必要はない。ただ私が何を意図しているかを理解してくれれば十分である。なぜならばここで行われているのは、イスラーム擁護の講義でもなければ、イスラーム否定の講義でもなく、イスラーム理解のための講義なのだから。
ラマダン月だしなんとなくアリー・シャリーアティー『イスラーム再構築の思想』からいちばんかっこいいとこ引用してみました。これ、言ってるシャリーアティー本人も心の底じゃ「きまった…」って絶対思ってるよ。
この御本は、アリー・シャリーアティーというイランの学者氏によるイスラーム史の講義録をまとめたものの邦訳で、ホラーサーンのマシュハド大学で行われた講義と、その後テヘランのホセイニーエ大学で行われた講義とを時系列に並べてある。
何がどうというか、上記のやりとりを引用したかっただけなんです。だってかっこいいから。でもかっこよすぎたらしい。イスラーム史の講義を担当するようになって4年目、シャリーアティーはマシュハド大学を放逐されてしまう。その後ホセイニーエの教壇に一時は立ったものの再び放逐→投獄→国外脱出→10日後に脱出先のイギリスで不審死(1977年)。イラン革命成就はその2年後の1979年。内側でせっせと耕していたのがシャリーアティーなら、外側から野次を飛ばしつつ頃合いを見計らって収穫をかっぱらったのがホメイニー師、みたいな感じ……なんていう言い草はホメイニー師に対してフェアではないかも知れないけれども。
現代イラン出身の学者氏の間ではシャリーアティーの評価はまちまちというか、あまり堂々と触れている人を見かけない。例えばソロウシュ氏なんかはシャリーアティーについて一定の評価を与えつつ「エリート主義的に過ぎる部分もある」というようなことを仰っている。エリート主義(Selectism)という言葉を使ってはいるけれど、本音では「マルクス主義者」と言いたいのだなというニュアンス。これはシャリーアティーの運の悪いところというか間の悪いところというかまあ時代が時代だったからというか、読めば確かに語彙がどうしても赤々と光って見えないこともありません。
それはそれとして、同時に、シャリーアティーが革命の素地を作ったという認識はそれなりに共有されてもいるようです。でもその革命の残骸があのていたらくなので(シャリーアティーは革命成就前にこの世を去っており、現体制のありさまとはほとんど関係がないのだけれども)、「進歩派」とか「反体制派」の皆さんからしても、担ごうにもかなり担ぎにくい神輿というか、消化しにくいというか、いちおう「発禁本」であった時期も短くはなかったようなので。
めんどうくさいしがらみ抜きの地域ではそこそこ読まれていなくもないようです。どこかと言うと例えばトルコ。またトルコかおまえ。ああそうだよ。今日は知人宅にお邪魔するのに手土産にわらびもちを持って行ったのさ。そしたら「何これターキッシュ・ディライツ?」言われたわ。どうでも良いよね。例えばトルコで読まれているんだよシャリーアティーが。講義録のひとつ、『Shieye Safavi Shieye Alavi(サファヴィー朝のシーア、アレヴィーのシーア)』(後述)が、90年代にトルコ語に翻訳されて話題になったのをきっかけに、そこそこ、知られるようになっているのだそうです。
「アレヴィー」と言うと、それだけでもう変な化学反応起こしちゃうひとは起こしちゃうんですけれども、そもそもAlaviというのは「アリーに従う者」という意味であり、シャリーアティーもそれ以上の意味を付加しているわけでもなければ、ある特定の集団を表象する語として使っているわけでもない(後述その2)。
ちなみに上記の引用で「反対です」と生徒に言わせた先生のお考えというのはこうでした。
(質問) 腐敗に身を堕した人々は、結局どのような末路を迎えるのでしょうか。
(解答) 今日われわれが指摘している腐敗は、歴史に関する無知ゆえに誇張されている。もしも歴史を十分に研究するならば、現代の人間には自らの善行と腐敗を実際に識別することが可能である。(中略)現在の時点の人間は、もしも欲するならば過去の宗教的教育の基礎に立って自らを律し、幸福になることが可能な段階にまで到達している。預言者たちにしても、もしも人間が欲しないならば、何一つ成しえないのである。ただし彼らは、人間が自らの善悪を識別し得るように、思考を導くことができる。イスラームの預言者は次のように述べている。「すでにおまえは教えを授かったのであるから、平和、善、幸福、発展、安寧について理解が可能な知識を備えている。おまえには能力があり、理解が可能である。つまりおまえの思考力は、これ以上啓示を受けながら一々導かれる必要のない発展の段階に到達している。したがって今後は、理性が啓示にとって代わるのである」。もちろんその理性とは、何世紀もの間啓示によって成熟してきたのであるが。
なんだな。だらだらつまんないこと書かないで引用で済ませときゃはなしが早かったわ。良いラマダンをお過ごしください。
後述。『Shieye Safavi Shieye Alavi(サファヴィー朝のシーア、アレヴィーのシーア)』 この言い回しは、『イスラーム再構築の思想』にも何度か出てくる。
……よって私は自らの埃を払い、一般により広く通用している言葉を一つずつ洗い出し、その誤った意味を執拗に否定しなければならない。そして私はアブー・ザッルのイスラームをとり、カアブ=ル=アフバールのイスラームをとらないと宣言するのである。私は<公正と指導>のイスラームを取り、<カリフ制、階層差別、貴族>を排す。<自由、自覚、運動>のイスラームを取り、<隷従、幻想、沈黙>のそれを避け、<聖職者>のではなく、<聖戦士>のイスラームを選ぶのである。また私は<サファヴィー朝>のシーア派ではなく、<アリー>のシーア派を取る。<秘匿、仲介、待機>のシーア派を否定し、<敬神、責任、抵抗>のシーア派を受け入れるのである。要するに信者を抑圧や苦難から解放するような指導体制をとるべきであり、神が宇宙を創造し、それを運営することを助けはするが、神の精神を実現することはなく、信者の運命に微塵たりとも関与しない体制は選ぶべきではない。
後述その2。この御本を読んだからかどうかは知らないけれど、エルドアンさんが「アレヴィーが『アリーを愛する者』という意味ならば、私もアレヴィーである」と発言したのはちょうど去年の今頃でした。
後述その3。後述というか、昔に読み下したものを。試訳:祈りの哲学
別のところに書いたのを、こちらに保存しました。