“William S. Burroughs VS. The Qur’an”

ずっとさぼっていた『精神的マスナヴィー』の読み下しを再開するにあたって思うところあり、中途になっている3巻の続きから始める前に、5巻1333行目から1429行目までを読み下しました。offensiveな表現が含まれている箇所なので好みが分かれるとは思います。

そこで、というのも何ですが、前口上(と、何となしな解説)を兼ねてマイケル・ムハンマド・ナイト『William S. Burroughs VS. The Qur’an』のオープニングにあたる部分を以下に引用しようと思います。

これもこれでoffensiveかも知れませんが。

道の探求のためなら何だって寓意になりうる。たとえ獣姦であってもだ。

ルーミー、イスラムの伝統史上最大の詩人にして聖者。このスーフィーが遺した著作は「ペルシャ語のコーラン」とさえ呼ばれている。そのルーミーの書いたものの中に、ロバとファックした奴隷娘の話がある。この娘はロバのペニス全体が挿入されないよう瓢箪を被せてやっていた。だが奴隷娘の女主人は瓢箪抜きで同じロバとやろうとして死んだ。ロバが金玉ごと突っ込む勢いで深く挿入したからだ。近頃は誰も彼もがルーミーに夢中だ。そのくせ『マスナヴィー』のこういう部分は無視されている。知りたかったら読むといい。5巻1333行目から1429行目だ。

読もうと思えばこの部分は、性的快楽の誘惑は底無しだから気をつけろという警告とも受け取れるだろう。だがこういうスーフィー詩人たちの言葉には、得てして更に深い意味が込められている。そしてルーミーの場合、それは本気で一種のサイエンスですらある。ロバのペニスは、常にロバのペニスとは限らない。

時たま招かれる読書会で、おれは紙切れ1枚に走り書きしてたたみ込んでおいてあるルーミーのロバの詩句を引用する。「さて、」おれは言う、「詩を朗読させてもらおう。」

歓喜のあまり女のヴァギナはナイチンゲールのように歌い
ロバに対する欲情の炎が燃え盛ってとめどなくあふれ出す

女は扉を閉ざしロバを引っぱり出してきた
幸か不幸か女が味わわされたのは罰だった

たいそう良く仕込まれていたロバは
女の中に睾丸ごと逸物をぶち込んだ

ぶち込まれた女はあっと言う間に死んだ
ロバのペニスに肝臓は潰され腸はちぎれ……

おれの自作と思い込み、その場にいる全員がそろってひどいしかめっ面になる。どいつもこいつも分かりやす過ぎるくらい分かりやすい。もともとおれを嫌っているムスリムなら、これでおれを嫌う大義名分が十二分に整ったという表情を浮かべている。ムハンマドなんていう祝福の改宗名を名乗っておきながらこんな詩を書くというのが、彼らにはイスラムに反する行為としか思えない。おれに好意的なムスリムも残念そうな顔をする。おれに対する好悪に関わらず女たちは(非ムスリムたちもだが)、こんな気色わるいセンスの持ち主の頭の中には他にもどんなブタのクソが詰まってるか分かったものじゃない、といった風情だ。大雑把にまとめると、聴衆は皆おれのことを受けを狙ったガキ臭いクズ野郎とタグ付けする。

そこでおれがこの詩の作者は偉大なる師ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミーだと告げてやる。ああ、そうとも。「あの」ルーミーの書いた詩だ。すると彼らは今度はどうしたらいいのか分からないといった顔になる。今朗読されたこれがあの「わたしは命ある限りコーランのしもべであり、選ばれし者ムハンマドの道の塵である」と書いたルーミーのそれである、ということが彼らにはどうしても理解できない。ムスリムに限らず非ムスリム、エナジークリスタルだのドリームキャッチャーだのをもて遊んではブッダと一緒につるんでるといった具合のニューエイジなルーミーのグルーピーどもも似たりよったりだ。いずれにせよこれは確実に、イスラムについてのごく一般的な定義だとか、あるいは世間の考えるイスラムのあるべき姿だとかムスリムのあるべき姿だとか、そういうのとはまったくマッチしていないというわけだ。

それでも読書会の後で、おれのところに駆け寄ってくるムスリム・キッズが最低でもひとりは必ずいる。そしておれがルーミーを朗読したことに感謝してくれる。それも本当にまるでおれがこの子のために、ただこの子のためだけにこのおれが海底まで潜っていって失われた宝箱を探し出して拾ってきてやったかのような、そういう感謝の仕方をしてくれる。この子たちは別にロバとセックスしたいわけじゃないし、ましてやロバとのセックスの話を書きたいわけでもない。だが一番大事なのはまさしくこれなのだ。どうしたらいいのか分からなくなっていた可哀想な迷子たち。ちょっとした過ちだの、頭に浮かんだ小さな懐疑心だの、「ふつうじゃない」考えを抱いたことだのにいつも悩んでいる。こんな自分はムスリムとして失格なんだと思い込み、そのせいでずっと傷つきっぱなしでいる。だがそこに永遠不滅の無敵のルーミーが牧場ポルノをひっさげて登場だ。ルーミーの本番「ロバ」ショーは、物事を見るためのもっと広い視野の持ち方を伝授してくれる。自分に対して自分でつけていたちっぽけな成績表をぶち壊してにしてくれるのだ。おれが差し出してやれるのはせいぜいこの程度のことだが、それでも手助けくらいにはなると思っている。

 


William S. Burroughs vs. the Qur’an
『William S. Burroughs VS. The Qur’an(バロウズ VS. コーラン』はピーター・ランボーン・ウィルソン(”a.k.a. ハキム・ベイ”)の評伝を書こうと思い立ったナイトが、取材するうちに彼に対して長いあいだ抱いていた憧れや期待をすっかり失ってしまうと同時に、かつてウィルソンを英雄視していた自分さながらに自分を偶像化する少年少女たちに取り囲まれていることに気がついてしまうという、こうして説明してみるとすごくつまらなそうになってしまいましたが、実際にはとても面白い小説、いや、小説というか「読みもの」です。他人のミミックになるな、というのは「牧場ポルノ」とも通ずるものがあります。

ナイトは米国生まれのイスラム改宗者です。パブリック・エナミーのラップを通じてマルコムXを知り感銘を受けたのが13歳の時、アレックス・ヘイリーの『マルコムX 自叙伝』を読んで改宗したのが15歳の時といいます。その後17歳で単身パキスタンに渡りイスラム学習に励みますが、そこで教えられるいわゆる「オーソドックスな」イスラムに失望して帰国。

帰国後の彼はものを書きはじめ、2002年に架空のムスリム・パンクバンドを題材にした最初の長編『The Taqwacores』を仕上げます。

The Taqwacores
コピー機で複写し無料で配布していたところ、ナイト自身はすっかり棄教したつもりで書いたこの小説が移民2世、3世を中心に一部の若いムスリムたちに大受けし、実際にバンドが次々と生まれてパンク・シーンが形成され、一種の社会現象として取り上げられたりもしました。ノースカロライナ大のCarl W. Ernst教授は「『The Taqwacores』は若いムスリムたちにとっての『ライ麦畑でつかまえて』なのだ」と評しています。

Young Muslims Build a Subculture on an Underground Book
(2008年12月22日付のNYタイムスの記事)

上記の記事では結びの部分でモロッコ系の15歳の少女が9.11直後、通りでは学校に通うバンの車体めがけて通行人から生卵やコーヒーカップを投げつけられたこと、学校では彼女めがけてコーランの教師から「字義通りに解釈しろ」とチョークを投げつけられたこと、2つのムスリム・スクールを退学処分になった後で伯父から手渡された『The Taqwacores』が彼女の命綱となったこと、この御本が彼女の「信仰を救ってくれた」こと、などを語っています。


他に参考になりそうな、関連のあるものをいくつか。

と、言っても「牧場ポルノ」(この呼び方がすっかり気に入りました)に触れている解説、今のところわたしはかなか見つけ出せていません。肝心のR. A. ニコルソン教授も他の部分はもううるさいよというくらい解説や注釈をつけてくれているのに、この箇所はそもそも英語に訳すのも憚られたらしくラテン語訳に留めるといういわば自主規制をしています(この箇所以外にも、あちこちラテン語訳の箇所があります。ヴィクトリア朝の闇は深い)。

先日、談話の一部を紹介したシェフィック・ジャン氏は著書の中で、

Fundamentals Of Rumis Thought: A Mevlevi Sufi Perspective
「性的放逸を戒める、あくまでも譬え話であって(他意はない)」的な、宗教者らしい穏当な解説をしていました。

でもそれだけではちょっと物足りない(失礼)ので、「何かないか」と検索していたらイラン系アメリカ人の詩人マジド・ナーフィスィー氏の論考を見つけました。あ、これすごく興味深い。

ナーフィスィー氏はマスナヴィーを「女性嫌悪的な偏見を反映した家父長制社会の産物」とした上で、かつそのような「暗部」があるからといってマスナヴィーの「ペルシャ文学における傑作としての重要性を損ねるものではない」ことは他言語の文学とも同様であり、それは例えば「『ヴェニスの商人』においてシャイロックが借金のカタに心臓の肉を1ポンド要求したり、最終的にはユダヤ教を棄教してキリスト教に改宗したりするからといって英文学におけるシェイクスピアの果たした役割をが損なわれるものではないのと同様である」と述べています。

それから、この御本の中で触れられているのをgoogleブックスで少しだけ読むことができました。

Islamic Images and Ideas: Essays on Sacred Symbolism
マスナヴィーの解説というのではなくファロスとは云々という話(「葉巻は常に葉巻とは限らない」)ではありましたが、他もいろいろと面白そうなので注文してみました。

それから、昔の写本の挿絵を見つけました。ロバの表情が秀逸です。

ああ、収拾がつかなくなってきた。

なぜ3巻を中断してこの箇所を先にやっつけておこうと思ったかというと、そもそもこれはマスナヴィー、1巻の冒頭で「未熟者には成熟者の状態は理解できない」と、著者によって成人指定されている図書であることを忘れないで下さいね、と、ここら辺で念押しをしておいた方が良さそうな気が何となくしていたからでした。

と、いう感じで3巻の続きに戻ります。