御本の記録:第1四半期 (2)

続きです。

昨年末から新年にかけて「イスラーム国」「ISIS」関連の御本がわわわわ、と本屋さんの店頭に並んでいました。一瞬だけコンプリートしてやろうか的な衝動に駆られましたが、つまみ食いでやめておくことにしました。

一冊めはこれ。

イスラーム国の衝撃 (文春新書)
今さら言及するまでもないだろうという気もしますが、とりあえず読んでしまったものは読んでしまったものなので。

わたしにとりこの著者の美点は「言葉に誠実である」ということに尽きます。時たま、ニュースに解説者として出演しているのを拝見していてもコンマ1秒毎に自分の意図や動機をチェックしながら言葉を選んでいるのが伝わってきます。言葉をご自分の道具にするのではなしに、ご自分が言葉の道具であることを「弁えて」おられる、などと思います。そのような著者が「イスラーム世界にも(…)宗教改革が求められる時期なのではないだろうか」などと書いているのを読んでしまうと、わたしのような者でも胸に迫ってくるものがあります。

2002年の同著者による現代アラブの社会思想 (講談社現代新書)の「おわりに」にはこんな一文がありました:

いつかアラブ世界が苦境の時代を抜けた日に、時代の趨勢に抗って懸命の思索を続けた知識人について書いてみたい。アラブ・イスラーム文明の栄光の時代についても、書いてみたい。

是非とも読んでみたいものです。

二冊めはこれ。

カリフ制再興 ―― 未完のプロジェクト、その歴史・理念・未来
日本語圏内に限って言えば「カリフ制再興論」ないし「カリフ制復興論」についてのトリビアというか、ボギャブラリを増やすという意味で非常に役に立つ御本かと思います。著者の自明とするところが当方には全く自明ではなかったりまたその逆もあったりで、消化に時間がかかりました。

「カリフ制復興論」なるものと何年も向き合っている(向き合わざるを得ない立ち位置にいる)当事者たちにとってはおなじみの記述にあふれた御本でしょう。非常に大雑把な言い方になりますが、ムスリムが多数を占める地域における政治体制というのがこうも「まとも」でない以上「カリフ制復興論」が相対的に魅力的に見えてしまうということはあると思います(ここで「まともでないのはムスリムが少数の地域における政治体制も同じではないか」などと混ぜ返されることは大いに予想できることです。「そうですね」としか言い様がないわけですが)。これはもう「カリフ制復興論」に限らず、多くのいわゆる「イスラム復興論」に共通することでもあります。

そして多くのいわゆる「イスラム復興論」がそうであるように、この御本もまた「カリフ制再興」の意義であったり必要性であったり、あるいはその論の正当性を訴えることに多くのページを割きつつも、では具体的にどのように再興するのかについては全くと言ってよいほど触れられていません(再興の試み的な事例というか、エピソードはいくつか紹介されています)。いませんが、末尾に「カリフ制に関する議論がムスリム大衆に浸透することが必要」であるとし、

……そうした公論の場が真に開かれた自由な場であること、即ち、「イスラーム国」を代表する立場にあるウラマーゥ(イスラーム学者)であっても、学術的議論の場での発言である限りにおいては、政治的弾圧を受けることなく身の安全が保障され自由に意見を表明できるような場であることなのである。

と結ばれた一文がありました。言論の自由!それはもちろん大切です。限定条件付きというのが気にならなくもないですが、ともかくも最後の最後でカリフ制再興論者と意見の一致をみることができました。途中で投げ出さずに最後まで読んでよかったです。

念のため言い添えておきますが、カリフ制に関する議論は10年以上前からすでにムスリム大衆にそれなりに浸透しています。それからこの御本より先立って世に出ていた同著者の新書については、以前に触れたこと(これとか) (その前ですとこれとか)の他に覚えておきたいことは今のところ特にありません。

三冊めはこれ。

Sufi Cuisine
著者のNevin Haliciさんという方はコンヤにお住まいのトルコ料理研究家の方で、この御本で紹介されているのはターリカ・メヴレヴィーヤの台所に伝わるレシピです。レシピのひとつひとつに『マスナヴィー』や『タブリーズィー』などから(主に食材や料理にまつわる)引用が添えられています。あちこちのページに散りばめられたイラストレーションもかわいらしい。

メヴラーナは著作の中で繰り返し「控えめに食べよ」と諭していますが、こうしてめくってみる限りどうやらそれはあくまでも量においての話であって、決して質という意味ではなかったみたいです。まあ人生のプロセスを「生肉だったものが焼かれたり煮られたりの調理を経て滋養ある一皿になる」と喩えるような人なのだからして。

引用ばかりでなく、ターリカ内における料理の捉えられ方や料理人の地位についてだとかテーブル・マナーや役割分担(エリフ・シャファクのThe Forty Rules of Loveに、 台所仕事を命じられた新入りが「こんなはずじゃなかったのに」と心の中でぶつぶつ文句を言いながら大量の皿を洗う場面があったのを思い出しました)だとかが、古くは13世紀にさかのぼって紹介されておりとてもおもしろい。例えばシェイフが(Afiyet olsunではなく)Asuk olsunと言って食事が始まる、といったおはなしや、「ピラウ(米料理)のためのお祈り」など。コンヤ以外の土地からやってきた弟子たちが自分の郷土料理を披露することもあったようで、もともとコンヤ発祥ではない料理もターリカではふるまわれたりもしていたようです。

まだ読み終わっていませんけれども、これは良い御本です。レシピ集は「読む」ものではないだろうと言われればその通りなのですが、しかしわたしは料理の御本を読むのが大好きなのです。ラフカディオ・ハーンのクレオール料理読本ですとか、ロイヤル・レシピ―英国王室料理ですとか、本当に楽しいです。去年だか一昨年だかに見つけたA Baghdad Cookery Book: The Book of Dishes (Kitab al-Tabikh)というのもとてもおもしろかった。

“Sufi Cuisine”は「実用的」な、いわゆるレシピ本の要素もちゃんと備えています。機能がかなり制限されたわが貧弱な台所においても実際に料理を再現できる可能性が高い。そうは言っても「ペクメズ」ですとか「ユフカ」ですとか、「カイマク」ですとか、材料の入手からがんばる必要はありますが、ちょっとがんばってみようかなと思います。まずはヨーグルトの水切りからですね。

さすがに「ベイシェヒル湖、またはセイディシェヒル湖で穫れた新鮮な鯉のフライ」なんていうのはがんばろうにもがんばりきれないですが。