まだ読みはじめたばかりですが、読み始めるきっかけが何であったのかを忘れてしまわないうちにメモしておこうと思います。
Terrified: How Anti-Muslim Fringe Organizations Became Mainstream
2012年に同著者が記した「The Fringe Effect」という論文の紹介を読んで「おっ」となり(論文自体もここであるとかあそこであるとかで読める)、それから御本になるのを待っていたのが、うつらうつらしているうちにすっかり忘れていたところ「あっ」と思い出して、昨年の冬に出ていたことを知って注文して届いて今まさにめくっているところです。
「あっ」と思い出したのは先週の金曜です。でした。フランス、チュニジア、クウェートという地理的には遠く離れたあちらこちらで時間的にはごく短いスパンで起きた複数のテロ事件と、そのテロ事件についてはっきりとした断定的な物言いは避けつつも確実に、「リンクしてるだろ」という前提に立つことに何の問題もないであろうというのを暗に明らかに(という言い方はおかしいんだけどたぶんニュアンスは伝わるはず)示唆する見出しの記事がgoogleニュースのトップにいくつもいくつも並んでゆき、さらにそれがsnsで拡散されていくのを目の当たりにしてのことでした。取り寄せてたら何週間もかかっちゃうのかなめんどうくさいなー、と思ったら東京の古本屋さんにあった。世界って広いんだか狭いんだか。
御本については期待していた通り(忘れていたくせに)、今のところとてもおもしろく読み進めることができています。
3行で説明すると、それまではごく少数の「極端な主張」でしかなかった「フリンジな」言説とその発話者である「フリンジな」団体が、9/11以降いかにして「メインストリーム」となり「文化的変容(カルチュラル・チェンジズ)」をもたらしたか、というのを追跡してゆくという御本です。ああ、なんて説明がへたくそなんだろう。かまわず続けます。具体的に著者が何をしたかというと、2001年から2008年の間に120の市民団体が公表したムスリムに関する1084のプレスリリースと50407件の新聞記事や報道番組のトランスクリプトを、盗用検出ソフトを使って照合するのね。すると9/11以降、ほとんどの市民団体が公表していたプレスリリースがムスリムに親和的な声明であったにも関わらず、マスメディアの論調を支配したのは実際にはごく少数の、周縁的/フリンジな反ムスリム組織による「恐怖や怒りの感情をあおる」語彙でもって構成された声明だった、っていう。これをもっとうまく説明すると今年3月の著者インタビュー見出し、This is how Fox News spreads hate: How right-wing media tells lies about Islam になる(固有名詞が入るとぐんとわかりやすくつたわりやすそうになるなあ)。
もちろんここで「反ムスリム」とは何かとか「親ムスリム」とは何かとか、何をもってメインストリームというのか、どういう状態の組織をフリンジと断定するのかといった質疑があがるのは当然で、そのへんはちゃんとひとつづつ御本の中で説明されてます。読んだひと誰もがその説明に納得いくかどうかまではしらないけれど、今のところ自分はいちいち納得しながら読み進めることができているので何の問題もない。
とは言え同時に、自分は社会学ですとかを勉強したこともなく、この「状況」を憂い半分冷やかしはんぶんでうすぼんやり眺めているいち一般読者として読んでいるだけなので、統計なんてどうにでも結果を操作できちゃうんだぜ的なことを言われればまずはあらまあそうなの?と応答するのにやぶさかではありませんが、せめて前述のインタビュー記事くらいは読んでみようねとも付け加えておこうと思います。「調査を開始した頃にはビッグデータなんていう語彙もなかったし」とか、おもしろいです。
もうひとつ、いち一般読者的にいまとても困っているのが discursive fields というコンセプト/語彙をどう日本語としてかみくだけばいいのか問題です。若干あたらしめでかつ実際に使い勝手がいいので定着しつつある用語のようですが、頻出するので読み終わるまでに何か適切な日本語を見つけてみたいものですがこれがたいへん難しい。たとえれば今はまだ水揚げされてはいないが確かにそこらへんに網を投げればかかってくるであろう魚の群れみたいな感じか。水揚げされればこれはさばとかこれはさけとか名が(意味が)与えられるわけだけれども、水揚げされる以前からすでにそこにある……文脈? というか文脈以前に、文脈の持つ様々な側面/文脈の形成時に取捨選択される様々な要素? うーん。
著者が言う discursive fields は言語に留まらず映像であったりする場合もあるのですが、ともかくここに何か「はなしの種」があって、その「はなしの種に」意味合いが付与されて文脈というものができてゆくそのプロセス、という感じでしょうか。それにしても形成されゆく文脈というのが英語のそれであった場合、参加者のバックグラウンドの多様さといったら日本語でのそれとは比較になんないからたいへんだ。ああ、なんて説明がへたくそなんだろう。いいやもう。寝よう。
ところで金曜の報道その他について、「記者も政治家もISILに踊らされ過ぎ」と一喝しているのはホアン・コール先生くらいしかいないんでしょうか。
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