“Terrified”という御本を読み終わったところで金曜です


Terrified: How Anti-Muslim Fringe Organizations Became Mainstream
読み終わったんです。非常におもしろうございました。ひとことでまとめると「メディアという拡声器で増幅されたほんの一握りの目立ちたがり屋の声が結果その他大勢のもの静かな人々の声をかき消してしまった」現象を豊富なデータと共に詳細に解説した御本。です。

ESL読者を視野に入れてる先生の増加を歓迎します。おかげさまですごく読みやすかったんですよ。でも読みやすい本文140ページの後ろに暗号文にしか見えないappendix(と、reference+index)が80ページ以上ついてきた……まあいいや。そういうのは現役の学生さんががんばればいいことだと思います。

プロローグとエピローグにテリー・ジョーンズ牧師が登場してました。あー、そういえばいたなあそんなひとが。コーラン燃やすぞ!ってやっていたひとですね。それが大きく報じられて、彼はほとんど24時間メディアに出っぱなしになって(批判の的としてではあるものの)ある種の「セレブリティ」扱いされて、国内外の政治/宗教指導者が彼におもいとどまるようメッセージを発したりして、最終的には燃やさなかったんだけどアフガニスタンはじめムスリムが多く住まう国々の、燃やされたという誤報を信じ込んだひとびとがデモやって衝突があって暴動に発展して、「少なくとも20名が死亡し、100名以上が重傷を負った」。

今どうしているのかなと思ったら、なんかショッピング・モールのフードコートにフレンチフライ屋を出店したんだそうです。

Koran-burning preacher’s pulpit of defiance and chili cheese dogs

Koran-burning preacherってすごいな。リングネームっぽい。

ところで読み終わってちらっとニュースをのぞいたら、米国南部で黒人教会が立て続けに火災で焼け落ちているそうです:米南部の黒人教会で火災相次ぐ、放火の不安広がる

上記リンクの記事では6件となっていますが、7件めだ、8件めだといった報道もありました。
South Carolina church fire: The US is asking – ‘Who is burning black churches?’

しかし「誰がやったの?」だなんて今さらためらう理由が理解できない。いや、と言うよりもむしろそのためらいを先週金曜どうして発動させられなかったのかが知りたい。皆さんいろいろとずいぶんいさましくたくましく発動させていたではないですか。

以下は読み終わった御本からの引用です。全体からすればものすごく特別に重要なとこというのではないでしょうが、自分の記憶と照らし合わせて「ああ、確かにそうだった。ほんとうにその通りだった」と、おなかの底からふかあく頷いたとこです(それはわたしがここで紹介されているムスリム指導者たちに賛同しているという意味ではありません、念のため)。

……9月11日の攻撃に対してメインストリームのムスリム組織が繰り返し発していた非難声明 –– 国内・国外のいずれも –– を、なぜジャーナリストたちは無視し続けたのか。攻撃直後の余波の中、ジャーナリストたちが反ムスリム組織による恐怖と怒りのレトリックにすっかり飲まれていたことは前章で示した通りである。これとは対照的に主流的ムスリム組織の指導者たちは、9月11日の攻撃について慎重かつ冷静な言葉で語り、イスラムを名乗る過激主義の複雑かつ地政学的な起源を指摘した。たとえばムスリム指導者たちは、アル=カーイダのような過激派グループはヨーロッパの植民地主義からの移行段階に出現した南アジアや中東・北アフリカの抑圧的かつ権威主義的な独裁制の影響を受けているのだと主張した。またそうした独裁者たちはしばしば米国の支援を受けている。これこそ、ムスリム指導者たちが強く訴えようとしていた点でもあった。こうした主流のムスリム組織のナラティブによれば、ムスリムが関わる(ガザ)西岸地区やカシミールといった紛争地区への人道的介入は渋りつつイスラエルは断固支援し続ける米国の政治姿勢もまた、過激派グループが政治的不満を募らせる一因になっている。イスラエルや、その他ムスリムが多数を占める国々の、イスラムを抑圧する独裁者たちに対する米国の支援が、米国はムスリムを滅ぼそうとする/あるいは屈辱を与えようとするシオニストの陰謀の一部であると主張するオサマ・ビン=ラーディンのようなカリスマ的指導者への信頼感を醸成してしまっている。……

……傍流だった反ムスリム組織がメディア内での地位を獲得してゆくのを見た主流ムスリム組織の指導者たちは、自分たちの発表する感情を排した非難声明が自分たち自身の目的の達成を妨げているのを思い知らされた。「わたしたちはこう結論づけた……つまりわたしたちは、十分にセンセーショナルではなかったのだ」、あるムスリム指導者は言った。「わたしたちのプレスリリースは、本当にまったくニュースとして取り上げられなかった。……だがそれはわたしたちにはどうすることもできない問題だった」。別の指導者もまた同様に感じていた。「人々はみな口々に同じことを言った。『どうしてイマムや指導者たちは、誰もテロリズムを非難しないのか。どうして反対声明を出さないのか』。そのたびにわたしはこう言った……あなたがたの地元にだってイマムはいるし、みなユダヤ教徒やキリスト教徒の同胞として共存している。そしてイスラムとは平和の教えだと説いている。だがメディアは彼らについて報道しようとは決してしない。かわりに『われわれはイスラムのために戦っている、全員改宗せよ、さもなくば皆殺しだ』などと口走る誰かをどこかから見つけてくるのだ」。運良くジャーナリストの興味をとらえた人物たちでさえ、テレビ番組の取材については「利用されただけだった」と述懐している。たとえばある著名な指導者は、最近出演したFOXニュースについて「雄叫びコンテスト」と評した。「誰が正しいことを言おうが間違ったことを言おうが関係ない」、彼は言った。「重要なのはどれだけ大声で怒鳴り散らせるか。実際に、わたしが話し出すとプロデューサーは音量を下げた。そしてわたしの討論相手が話し出した途端に音量を上げたのだ!」。こうした証言はメディア各局が感情的な題材を探し求めていたというだけではなく、指導者たちが非感情的な声明を発表するのを困難に –– 場合によっては不可能にさえ –– していたという事実を示すものである。
“Terrified: How Anti-Muslim Fringe Organizations Became Mainstream” p56, p57

1件のコメント

現在コメントは受け付けていません。