御本の記録:第2四半期(1)

読んだりめくったりしたもののめも。ひとつめとふたつめ。

シャルリ・エブド事件を考える: ふらんす特別編集


現代思想 2015年3月臨時増刊号 総特集 シャルリ・エブド襲撃/イスラム国人質事件の衝撃

『現代思想』って、手に取るのはこれが人生で2度めです(ちなみに1冊めはサイード追悼特集でした)。表紙の字面のむちゃくちゃさ加減が衝撃的だったのでつい。酒井啓子氏が

一月七日に起きたパリでのシャルリー・エブド誌への襲撃事件と、二〇日に発覚した日本人二名の「イスラーム国」による人質事件は、背景も犯人も発生原因もほとんど違う。

と、寄せておられた短文の冒頭で確認しといてくれててああよかった、とおもいました。

『ふらんす』にいたっては手に取るのもはじめてどころかそんな雑誌があったことすら知りませんでしたが、読み終えた後には je suis Charlie と自分から言うことはないでしょうが etes-vous Charlie? と尋ねられたらあえて non とつっぱることもないかなくらいのこころもちにはなりました。「わたしはシャルリ」。シャルリでマララでトレイヴォン・マーティンでマイケル・ブラウン。どうだ。

みっつめ。

反知性主義: アメリカが生んだ「熱病」の正体 (新潮選書)
「はじめに」でタイトルにある「反知性主義」という語の日本での意味の持たせ方や使われ方が本来のそれとはちょっと違ってるよという具体例を含めた指摘があって、「おわりに」でちょっと違ってたのわかったね、という確認があるんです。で「はじめに」と「おわりに」の間にはさまった本文でその違いを説明するためだけにアメリカ建国までさかのぼって約2世紀分をとんとんとんとんと階段のぼってく感じでリズミカルに解説してくれるの。すごいなあと思いました。

古女房かコーラスダンサーか
ホフスタッターはこれを、「あたかも、舞台のコーラスダンサーの最前列の若い娘に心を奪われた亭主を見ている古女房」にたとえて説明した。見事にぴたりとくるたとえ方である。そして、このやや低俗とも思われるたとえ方自体アメリカの底流をなす反知性主義を適切に表現していると言ってよい。われわれがゆっくりとその歴史を追いかけている反知性主義の原点とは、要するにひとことで言うと、このぴちぴちとしたコーラスダンサーが振りまく魅力であり、その若い娘たちにみとれている亭主の心持ちなのである。難しい話はさておき、ともかく思わず見とれてしまう、そのうっとり感。古女房の冷たい視線を脇に感じながらも、それで何が悪い、という一抹の開き直り感。これである。

「これである」。笑。くすっ、てなりました。「これである」。使える機会を積極的に探していきたい。正規の訓練を受けた既成教会の牧師たちの「大学出のインテリ先生が、二時間に渡って滔々と語り続ける難解な教理の陳述」よりも「みずからの信仰的確信を頼りに……人びとを集めて怪しげな説教をして回る」説教師のはなしの方が信者に受けてしまう、というのはひとごとではないなあと思います。

ホフスタッターというひとの御本は読んだことはありませんが、ご自分がIntellectualであるという自覚があって、かつご自分のようなIntellectualがある種の人々の反感の的になっているという自覚もあって、その上でAnti-Intellectualismという語に行き着きかつAnti-Intellectualismにも一理あるとお考えになったのでしょう(たぶん)。でもそれ以降、それまでならIntellectualと呼ばれたであろう人々はAnti-Intellectualismの的になるのが嫌だったからなんだか耐えられなくなったからなんだか、Liberalを自称し始めるんですよね(たしか)。

著者の解説通り「反知性主義」というのが「知性と権力の結びつき」に対して発動されるものであるなら、それは確かに健全です。そしてこれが日本の場合はふだん反権力っぽい言動で自分の立ち位置を獲得していてもはや「反権力の権威」みたいになってる「リベラル」な人々が「反知性主義」を批判する、という図式であるならそりゃあたしかに滑稽なはなしです。御本1冊をもって指摘する価値はあります。

反知性主義という語のそもそもの成り立ちはわかりました。が、さてそれはそれとして

反知性主義の変質
もう少し禍々しい現象としては、白人至上主義を掲げるクー・クラックス・クラン(KKK)の全国的な再興があげられる。KKKは十九世紀に発生した後いったん下火になったが、一九二〇年代には爆発的な会員増を遂げた。その背景には明らかに好戦的なナショナリズムがあるが、「アメリカ的な価値」を煽り立てて白人文化のそれと同一視しようとする人びとも無視できない。

最後まで言及がなかったらどうしようかと読んでて少しどきどきしました。

反知性主義が変質したのか最初からそうだったのか、あるいは名づけたらそうなったのかちょっと見分けるのが難しいなと思います。

『エルマー・ガントリー』わるくないですよ。『リバー・ランズ・スルー・イット』いいですよ。でもそういうののさい果てにあるのは『マッドマックス』ですよ。あれ(マッドマックス)、「石油も水も尽きかけた世界」とか言ってますけどそれ以前に非白人が尽きた世界ですよ?いくらなんでも川の流れの先に『マッドマックス』は極端だと思われるかもしれませんがこの御本の、非白人の出て来なさ加減からして登場する黒人(黒人女性)が限定1名ってとこまで、わりと『マッドマックス』なんだよなあとあたまの片隅で思いながら読んでました。「いま世界でもっとも危険なイデオロギーの根源」という帯がたくまずしてものすごい説得力と現実感を伴ってせまってきちゃいますよ。

「throw the baby out with the bath water(汚れた産湯ごと赤ん坊を捨てる)」のは愚行だろうというのは理解します。でも半世紀前はともかく現代では、この御本で扱われている「アメリカ的な価値」の一端であるところの「反知性主義」の具体的なあらわれというとレイシズムと銃犯罪くらいしか思い浮かばない。美徳としてながめるにはその恩恵を分別するのが今の自分にはちょっと(いや、かなり)むずかしいです。もちろんそれとこの御本自体の価値はまるで別のはなしですが……とりあえず自分が見聞しかつ恩恵に預かっていると思うところの「アメリカ的な価値」との何かしら共通点が見つかるといいんだがという希望を抱きつつ、国勢調査局によればこれから移民の皆さんがベビーブームを迎えて人口ボーナス期に入るため未来の白人文化の担い手も2020年にはマイノリティに転落、もとい「仲間入り」するそうなので、ハロルド・クルーズの『PLURAL BUT EQUAL』でも読んでその日に備えようと思います。自分もダイジェスト版でしか読んだことないんですけど今なら1セントで買えるようだ。


The Crisis of the Negro Intellectual
『ネグロ知識人の危機』。うん?「ベストセラー1位」なんていう表示が出ている。ご時世がご時世なんで再読ブームでもきてるのでしょうか。

…The American constitution was conceived and written by white Anglo-Saxon Protestants for a white Anglo-Saxon society. The fact that what is called American Society, or American Culture, did not subsequently develop into a nation made up totally of WASPs — because of Negro slavery and immigration — did not prevent the white Protestants from perpetuating the group attitudes that would maintain the image of the whole American nation in terms of WASP cultural tradition.

…The negro intellectual must deal intimately with the white power structure and cultural apparatus, and the inner realities of the black world at one and the same time. But in order to function successfully in this role, he has to be acutely aware of the nature of the American social dynamic and how it monitors the ingredients of class stratifications in American society … Therefore the functional role of the negro intellectual demands that he cannot be absolutely separated from either the black or white world.

さてイスラムの場合はそもそも預言者ムハンマドにしてからが「文盲」であった、というのが正統とされる解釈のひとつとして最初からインストールされているので、これはなんだかもう「反知性主義」どころのさわぎではないのだった!

いや、「1. ムハンマドは文盲であった」というのをことさらに寿ぐ(という言い方はおかしいか)のは「2. 文盲の人物にコーランは著述できない」「3. ゆえにコーランはムハンマドの創作などではなく、まちがいなく神の奇蹟である」っていう、宗教の範囲でながめればこれは一種の護教論であるし、歴史の範囲でながめれば「正統カリフ時代」などと同種の後づけの偽史なわけですけれども。ハディースの成立よりも1世紀くらい前に書かれた最古のムハンマドの伝記、とされているイブン・イスハーク『預言者伝』にはムハンマドが誰それに手紙を書いた、というような記述がさらっとなされてありますし、「知識を求めよ」「学者のインクは殉教者の血よりも尊い」といったような言葉がムハンマドに帰されていたりもしますが。よっつめ。

イスラム社会 (文化人類学叢書)
表紙画像を借りたいがために密林からリンクをひっぱってきているようなものなのに「画像がありません」と言われてしまうことが少なくないです。そしてどうしてそんなお値段に。

原題は『Muslim Society』だそうですが、

……本来ならば原題に則して『ムスリム(ないしはイスラム教徒)社会』とすべきであったろう。原題が『イスラム社会』ではなく『ムスリム社会』となっているのも、イスラムそのものよりも、むしろムスリムすなわち「イスラム教徒」に分析の焦点を当てようとする人類学者としての姿勢が伺われる。これをあえて『イスラム社会』としたのは、日本ではこのムスリムという言葉が一般になじみがないという現実的な理由が大きいが、著者の意図が、Society が単数であることからも解るように、イスラム教徒の諸社会の多様性の強調ではなく、むしろそれらのイスラム教徒社会に共通して見られる諸特徴を説明するための社会的モデルの構築にあることからみれば、あながち便宜的な選択ともいえないだろう。

『ムスリム社会』で問題なかったと思います。というか、ムスリムという言葉はあんまりなじみないだろうからイスラムにしておいたよっていうようなきづかいを必要とする読者向けの御本ではぜんぜんないと思うんです。

感想をひとことでいうと冷戦ってたいへんだったんだな、です。あと「イブン・ウェーバーの『ハーリジー派の倫理と資本主義の精神』」はちょっと読みたいかも、と思っちゃいました。