Conversations With Salman Rushdie (Literary Conversations Series)
AM : えーと。わたし自身ムスリムだけど、でもあの本を攻撃的だとは思わなかった。第一に、あれをいち文芸作品として時系的な文脈上に置いた場合、以前からある一種の美学の流れを汲んだものとして分類できると思う。第二に、アイデアをめぐるこうした議論こそが現代イスラムというものの本質だとわたしは思う。
SR : そう。そしてこんなふうに考えを巡らせているムスリムが実は大勢いるというのも、もう分かりきったことだ。皆こうやってカフェに座って、同じような議論をやってる。こういうアイデアを思いついたのは自分が初めてだなんてわたしは全く思っちゃいない。思うに本当の問題は、ストーリーに対する権力を持っているのが誰なのかということだ。何を言ったかではなく誰が言ったか。ムッラーがこう言っただの、サウジがああ言っただの、ともかく誰かがストーリーに対する権力を持っていて、その根拠はというとだって「実際に権力を持っている」から、っていう –– たとえば経済力だったり政治力だったり、あるいは説教師の支配力だったりという具合に。
わたしはこれは実に興味深い論争だと思っている。だってイスラムの範疇を大きく越えた論争だからね。同様の論争はユダヤ教にもあった、フィリップ・ロスの『さようならコロンバス』が出たときもそうだし、キリスト教原理主義者の場合も似たようなことがあった。スコセッシの『最後の誘惑』論争なんかがひとつの例だ。まあ書かれたテクストの置かれる地位とは違うのであまり良い例とは言えないけど。だがカザンザキスがいたな。
世紀末が近くなったので宗教的心情が高まっている、というのも考えてみるのもありかもしれないね。
ミシシッピ大学出版会『サルマン・ラシュディ対談集』とでもしておきましょうか。1982年から1999年にかけてのインタビュー/対談記事が収録されています。話題の中心はまあだいたいにおいてブンガクですが、媒体は文芸雑誌らしきものから『プレイボーイ』誌まで、対談場所はロンドンの自宅だったりスウェーデンのなんとかホテルのラウンジだったり、あるいは「これがラシュディ@インディアの見納め!」みたいなタイトルの、「ボンベイでインタビュー敢行!」なんていうのもあったりします(インタビュアーはサリル・トリパティ)。それから先日お亡くなりになったギュンター・グラス(ラシュディの追悼文がちょっと話題になってたりもしました)との会話なんかも。
ここで引用したのは御本のちょうど真ん中らへんにあるインタビュー記事。『BOMB』1989年春号掲載、ってなってます。インタビュアーはAmeena Meerさんという方。「ガルシア・マルケスっぽいって言われるけど言われるまで自分じゃマルケス読んだことなかったし」「影響を言うならディケンズって言ってほしい」「『アラビアン・ナイト』はいっぱい読んだ。マルケスもスペイン経由で『アラビアン・ナイト』はいっぱい読んだろうから『アラビアン・ナイト』つながりというのはあるかもね」的な感じで始まる。「あの本」というのは「悪魔の詩」のこと。
AM : インドで実践されているイスラムのあり方と、アラブで実践されている、というか強制されているイスラムのあり方とではずいぶん大きな違いがありますね。
SR : 亜大陸で発展したイスラム教のかたちというのは、ヒンドゥー教や仏教とかと一緒に並んで影響し合ったり –– こういう環境にいちばんよくフィットしたのが基本的にスーフィズムだったんだろうね。結果として、アラブがイスラムと呼ぶものとは似ても似つかない具合になった。もっとジェントルでミスティカルで、より汎神的な、かろうじて宗教、といった感じの。わたしはインドのイスラムは、「いけとしいけるもの」の表象としてどこの何よりも最も魅力的だと思っている。インドのムスリムが不寛容で狭量だなんて信じない。それは絶対に違う。わたしにしてからがインドのムスリムとして、彼らに囲まれて育ったんだ。みんな心ゆたかで知的好奇心が旺盛なコミュニティなんだ。ワッハービーのような、苛烈なイスラムを見ると本当に悲しくなる。あんなもの、原理主義 (fundamentalism) ですらない。わたしは認めない。あれをそう呼ぶのは言葉として間違っている。コーランに書かれていないことや、ほんのちょっとだけ書かれていることを針小棒大にこれぞ正統だと主張するなんて、それは原理主義でも何でもないだろう。コーランには女性について何ひとつ厳しいことは書かれていない、と言ったらそれは嘘になるしそういう糊塗の仕方は間違っていると思う。でも女性の証言は男性の証言の半分だなんて、コーランのどこにも書かれてはいない。あるいは女性が強姦されたことを証明したかったら証人を4人つれてこい、だとか。そんなのどこにも書かれていない。これもまたある種の権力に関する問題だ。宗教を独占し、あたかも真実であるかのように見せかけて強要する。
AM : インド/パキスタンのイスラムには、これがサウジアラビアなら異端だと思われかねない慣行がたくさんある。たとえばミーラード。女性が大勢で集まって預言者ムハンマドへの歌を歌うんだけど、これなんかはサウジアラビアでは絶対にやらせてもらえないでしょう。
SR : たとえば肖像画もそう。オーソドックスなイスラムでは預言者の肖像画の所持なんて絶対に認めない。カシミールは肖像画であふれかえっているけどね。それから聖者たち。ズィヤーラ(参詣)の通り道にみんなが供える花束だとか、菓子だとか –– そういうのを全部禁じられるんだ。だから自分たちが実際に実践していて、心からエンジョイしている自分たちのイスラムについて誰もおおっぴらには語りたがらなかったり、語りたくても語れないでいるのがわたしにはとても悲しい。でも、こんな状況が永遠に続くとも思わない。
SR : ……放送メディアが検閲下にある国の問題のひとつが、これはいつでもどこでもそうなんだけど、(その国の)人々が懐疑的、批評的、どう呼んでもかまわないがそうしたものの見方からすっかり遠ざかってしまうということだ。だってそうしたものを見たことすらないんだから。そしてそうしたものを見るのに、敵対というポジショニング抜きでそれ自体を見る、というのが非常に難しいことになってしまう。……敵意と批評は別ものだ。だがそうしたものに全くふれたことがない人には、違いを判別するのは相当に難しいだろうと思う。長期的にはこれもまた言論統制や検閲が与えるダメージのひとつだろう。「真実だとしても、口に出して言うべきじゃない」という態度が醸成されてしまう。まずいちばん検閲されているのがテレビやラジオ。わたしが英語メディアに語ったことなんかは(ブラック・マーケットでは)沢山目にしてきたけれど。
「発禁処分についてはどう思う?」という問いには「ほんとうに悲しい」と答えたりしている。いちばん嫌なのは誰それがこう言ってた、ああ言ってた、というふうに誰かの考えたことをそのまんま平然と自分の考えにしちゃうとこね、あと「でも(発禁くらったおかげで)売れたんだからいいだろ」とか言われるとむかつく、っていうか売れたわけねーだろ何しろ発禁なんだから!というあたりもおもしろいです。話題になるというのと実際に売れるというの(と、実際に読まれるというの)はちょっと考えたら全然ちがうことなんだけど、ぼんやりと勘違いしがちなポイントではある。
しっかしどのインタビューでもマルケス、マルケス言われててちょっとだけ気の毒な感じになってくるんですが、マルケス、マルケス言われるたびに「そうでもないと思うけど」とか「いや、ちょっとはそうかも」とか、「だからディケンズだってば」「いや、どっちかというとギュンター・グラスで」「本当はイタロ・カルヴィーノなんだが」「じゃあもうマルケスでいいよ」という具合になっていく風情にも くすっ てなります。