犠牲祭

アドハー・ムバーラク。犠牲祭おめでとうございます。

Timurid_Anthology
犠牲祭のそもそものあらましを描いた細密画、何かあるかなとフォルダをごそごそしてみて出てきたのがこれでした。慣用句的にカジュアルに「おめでとうございます」と言ってはみたものの、これだけを見ると「……で、どのへんがめでたいの」ってならなくもないです。でも同じ故事を題材にしたカラヴァッジオの作品( その1 その2 )などと比べれば、これでもまだほのぼのしている方だと思います。してないか。ああ、羊さんがりりしい。

イード・アル=アドハー
イード・アル=アドハー(عيد الأضحى 、Eid ul-Adha)はイスラム教で定められた宗教的な祝日。イブラーヒーム(アブラハム)が進んで息子のイスマーイール(イシュマエル)をアッラーフへの犠牲として捧げた事を世界的に記念する日。ムスリムのラマダーン明けのイード(祝祭)の1つである、イード・アル=フィトルと同様に、イード・アル=アドハーは短い説教をともなう祈祷(フトゥバ)から始まる。イード・アル=フィトルより長期間にわたるため、大イードなどとも呼ばれる。また、日本では犠牲祭と意訳される。(ウィキペディアから引用)

便利だなあ、ウィキペディア。それはそれとして、「犠牲として捧げた」のではなく「犠牲として捧げようとした」ところ、神がそれを「大きな犠牲」と引き換えにやめさせた、というのがコーランの伝えるところです。


コーラン〈1〉 (中公クラシックス)

99. 彼は言った、「私は主のみもとへ参ろう。主は私をお導きくださる。
100. 主よ、私に義(ただ)しい人となる子を授けたまえ」
101. そこでわれらは、彼に、聡明(そうめい)な男子の福音を伝えてやった。
102. この子が成長し、彼といっしょに働くようになったとき、彼は言った。「おお、息子よ、おまえを犠牲としてささげよとの夢を見たが、どう思うか」。息子は言った。「おお、お父さん、命ぜられたとおりにお振舞いください。神のご意志なら、私が忍耐強い男であることがわかっていただけるでしょう」
103. 二人がご命令に従って。まずアブラハムが息子を地面に顔を伏せるようにして倒したそのとき、
104. われらは彼に呼びかけて、「おお、アブラハムよ、
105. おまえは夢に忠実であった。このようにしてわれらは、善行にはげむ者たちに褒賞を授ける。
106. これこそ明白な試練というもの」とつげた。
107. われらは、彼を大きな犠牲で購(あがな)ってやった。
108. われらは、のちの世の人々がアブラハムを讃えて、
109. 「アブラハムに平安あれ」と言うようにしてやった。
110. このようにしてわれらは、善行にはげむ者たちに褒賞を授ける。
111. まことに彼は信ずるわれらの僕であった。
112. われらは彼に、義しい人の一人となる預言者イサクの福音を伝えてやった。
(『整列者の章』99-110節)

コーランには、犠牲に捧げられかけた息子さんがイシュマエルだったとは明示されていません。引用した藤本・伴・池田氏訳では、102節に、創世記に倣ってイサクと解釈しているらしき註が加えられています。井筒訳も同様。

(宗)ムスリム協会から刊行されている三田氏訳での同節には、「イスマーイールはイブラーヒームが86歳のときに授かった最初の子でアラブ民族の始祖とされる」という註がなされています。ちなみに112節の註には、「イスハークはイブラーヒームの次男で、イブラーヒームが百歳のときサラーで生れた。イスハークはユダヤ人の始祖とされる」とあります。

個人的には「とされる」のあたりが、こう。非常に気になります。これがウィキペディアなら[誰によって?]とか[要出典]とか絶対やられてるところだ感は否めません。まあこう書いてて自分でも[おまえ何様?]っていう感もありますが。気になるものは気になるんだから仕方ないです。いいじゃないですか、みんなアダムの子ってことで。

アドハー・ムバーラク。犠牲祭おめでとうございます。