引用:『大旅行記』3巻

『大旅行記』。この「マルコ・ポーロと並び称される,イスラム世界最大の旅行家イブン・バットゥータの旅行記」、寝転がってだらだらしながらめくるのにもってこいな御本のひとつです。全8巻ありますので、いつまででもだらだら・ごろごろしていられます。

出てくるはなしと言えば「どこそこのメロンすごいおいしい。干したのもほんとおいしい」「なんとか族の作る馬の腸詰ちょううまい」「魚いっぱい食べた。あとココ椰子の蜜にスパイス混ぜたの飲んだ。いい島だ」「ゆうべの食後の果物はざくろだったんだけど、ただ持ってくるんじゃなくて一粒づつほぐしてスプーンと一緒に持ってきてくれたからどこそこの王様のおもてなしは最高」みたいな感じなので(いや、もちろん食いだおれ以外のはなしもいろいろと出てきますよ)、どの巻のどこから読んでもだいたい問題ありません。

今日はその「イスラム世界最大の旅行家バットゥータが,14世紀のイスラム世界をあまねくめぐる空前の記録」3巻に登場する、クーニヤ(コニヤ)滞在の記述を。


大旅行記 (3) イブン・バットゥータ 編:イブン・ジュザイイ 訳注:家島彦一

……クーニヤは、壮大な規模の町で、華麗な建物と豊富な水、幾つもの河川と果樹園、果物類も多い。町には、〈カマル・ウッディーン〉と呼ばれる杏がある。そのことは、すでに説明したことであるが、その杏もまた、そこからもエジプト地方とシリアに輸出される。そこの街路は実に広々として、そこの市場は見事に整然とし、各職種の人たちが決まった区劃に分かれて住む。伝えるところでは、この町はイスカンダル(アレクサンドロス)による建設であると言う。そこは、スルタン=バドル・ウッディーン・ブン・カラマーン(カラマーンの子息スルタン=バドル・ウッディーン)の所領に属している。彼について、われわれは後に述べるとしよう。しかしイラクの支配者は、かつて様々な機会に、そこがこの地方一帯イクリームにある彼の土地から距離が近いという理由で、征服したことがあった。

われわれは、その町の法官のザーウィヤに宿泊した。彼は〈イブン・カラム・シャー〉のなまえで知られ、若者集団に属した。彼のザーウィヤは、ザーウィヤのなかでも最大規模のもので、門弟たちの大集団が彼のもとに所属する。彼らには[集団を律する]フトゥッワ(徳目)において、敬虔信徒たちの指導者(カリフ)アリー・イブン・アブー・ターリブ –– 彼に、神の平安あれ! –– まで遡る正しい権威の連続的伝承経路がある。

彼らのフトゥッワに基づく[正式の]服装はズボンであり、それは丁度、スーフィー(イスラム神秘主義者』たちがぼろ服ヒルカを着るのと同じである。この法官のわれわれに対する寛大なもてなしとわれわれ客人への接待は、先のいずれの人にも劣らぬほど寛大であり、かつまた手厚いものであった。彼は、われわれと一緒に公衆浴場に入るために彼に代わって、自分の息子を派遣した。

この町には、シャイフ、イマーム、善行に勤しんだ信者、聖柱クトゥブ、そして〈われらの主マウラー・ナー〉として知られたジャラール・ウッディーン[・ルーミー]の[聖]墓がある。彼は[神より授かった]知徳に優れていたので、ルームの地には、彼の教説に従う人たちの一つの教派ターイファがあって、彼の名前で知られており、彼ら[教団]を〈ジャラーリー派(ジャラーリーヤ)〉と呼ぶ。それは丁度、[アフマド・アッリファーイーによる]イラクのアフマディー派(アフマディーヤ)や[クトブ・ウッディーン・ハイダルによる]ホラーサーンのハイダリー派(ハイダリーヤ)が知られるのと同様である。彼の墓の傍らに、一つの壮麗なザーウィヤがあって、そこでは道往く旅人に食事が[無料で]提供される。

「彼の土地から距離が近いという理由で、征服したことがあった」。近場だから征服。すごい。こんな説得力のある大義名分ってなかなかない。

イブン・バットゥータがコニヤを訪れた1300年代、あの人たちはメヴレヴィーヤではなくジャラーリーヤと呼ばれていたのですね。メヴラーナがお亡くなりになってから約1世紀ほど後のことなわけですが、

挿話
伝えられるところでは、彼の早い時期には、法学者、教授ムダッリスであって、クーニヤにあった彼の高等学院には、生徒たちが彼のもとに集まった。ある日のこと、その高等学院に菓子売りの一人の男は頭の上に菓子の入った皿をのせて入って来た。その菓子は、一片ずつ切ってあり、男はその一切れを一枚の銅貨ファルスで売った。その男が教室に現れた時、シャイフは「おまえの皿を持って来なさい」と、彼に言った。そこで菓子売りはその一切れを取って、シャイフに渡した。シャイフは、手でそれを取って食べた。それからその菓子売りは出ていったが、シャイフ以外の誰にも与えなかった。シャイフは授業をそのままにして、生徒たちを待たせたまま、菓子売りの後を追って外に出た。彼らはシャイフをずっと待ち続け、シャイフを捜しに出たが、何処に居留しているのが全く分からなかった。結局、彼は数年後に彼らのもとに戻ったが、その時の彼の精神は錯乱状態になっていて、詩句の半句ムタアッラクずつを連ねた訳の分からないペルシャ語の詩句だけを唱えるようになった。しかし生徒たちは彼の教えに従い、彼の口から出るそうした詩句を書き取って、それをもとに『マスナウィー』と呼ばれる一冊の書物を編纂した。そして、その地方の人々は、この書を聖なるものとして崇敬し、そこに書かれた言葉を通じて見習い、それを[人々に導きの言葉として]広く弘め、金曜の夜には彼らのザーウィヤで、その章句を唱えた。

この町には、さらに法学者アフマドの[聖]墓がある。彼は、前述したジャラール・ウッディーンの先師であったと伝えられる。その後、われわれはラーランダの町に向かった。そこは、多くの水流と農園に恵まれた華麗な町である。

その約1世紀のあいだに、すでにこんな言い伝えが仕上がっているのだから現世はたのしいところです。

「菓子売りの菓子食ってどっか行っちゃって、帰ってきたときにはおかしくなってた」というのは、何ともなまなましくてすごくよいです。「流浪のダルヴィーシュと出会って文学的才能を開花させた」とかというのはある程度の時間が経過して評価も定まってからだから言えることなのだな。「訳の分からない」というのは詩句のことなのかペルシャ語のことなのか、それとも両方なのか。たぶん両方だ。詩グルイ。

念のため家島氏の注も引用しておきますと、

……この菓子売り( al-halwani )が他ならずジャラール・ウッディーンの運命に決定的な影響を与えた放浪のスーフィズムの修道者シャムス・ウッディーン・ムハンマド・アッタブリーズィーであった。

……ジャラール・ウッディーンとシャムス・ウッディーンの出会いについては、別の逸話も伝わっている。すなわち一二四四年に放浪のデルウィーシュ=シャムス・ウッディーンはコンヤに来て、砂糖商人たちの店に泊まっていた。そこでジャラール・ウッディーンは彼と出会った。