去年の秋ごろ、「西洋のスーフィズム認識に見る諸問題--宗教と近代を巡る言説の変遷を通して」という文章を目にしました。西洋におけるスーフィズムに対するある種の礼賛の姿勢は、裏返しのイスラモフォビアではないかといった問題提起がなされていました。とても興味深く読みました。
しかしこうした「イスラムとスーフィズムは別もの」的な認識のされ方、もっとありていに言ってしまえば「消費」のされ方というのは何も西洋に限ったことばかりではないかなと思います。ここでは、具体的には日本語圏内のことを指して言っています(加えて日本語圏内では、イスラムそれ自体にリーチする前置きとしての「西洋のイスラム研究はだめだ」言説の帯域幅がなんかやたらと長大な気がしています。何なのでしょうね、これ)(加えてよしんば「西洋のイスラム研究はだめだ」が仮に真であったとしてもですよ、それが「日本のイスラム研究はだめではない」の証明には全然ならないんですよ?ともゆっておきたい)。
それはまあともかくとして、とりあえずウィリアム・チティック先生の、
Sufism: A Beginner’s Guide (Beginner’s Guides)
これのさわりの部分を以下に置いておきます(ほんとうに、ほんのさわりです)。「<イスラム>とは別カテゴリの何かとして<スーフィズム>を偏愛する西洋人の存在」に加えて、「<スーフィズム>は<イスラム>とは別カテゴリの何かであると主張するムスリムの存在」にも同時にふれておられるのが◎です。
第1章 スーフィーの道
ペルシャ東部ブーシャーンジュ出身の、アフマドの息子アリーと呼ばれた師が、いったい「スーフィズム」が何であったのかを知る者は本当に少なくなったと嘆いたのは今から1000年以上も前の出来事である。彼はアラビア語でこう述べている。「今やスーフィズムは、名ばかりで実体なきものになり果てた。だがかつてそれは、名など持たぬ実体そのものであった」。
昨今の西洋では、その名はより知られるようにはなった。しかしその実体は、かつてのイスラム世界におけるそれよりもはるかに不明瞭になっている。名はラベルとしては役に立つ。だが実体とは定義にも解釈にも、書籍の中にも見出し得ないものである。私たちの時代とアリー・イブン・アフマド・ブーシャーンジュの時代 –– ちょうど「スーフィズム」と名づけられるようになった多種多様の現象が、イスラム社会の形成に影響を及ぼし始めた時期 –– の間にある断絶は際立って深い。たとえ実体の探究に踏み出したとしても私たちは、かろうじてその痕跡をなぞる以上のことは不可能かもしれないと肝に命じるべきであろう。
ある名称を別の名称に置き換えるというのは、スーフィズムの実体の探究を回避するための簡易な手段のひとつではある。私たちはしばしばスーフィズムについて、たいていの場合「イスラム的」という形容詞を語頭に付け加えた上で、「ミスティシズム」だとか「エソテリズム」だとか、あるいは「スピリチュアリズム」である、と聞かされる。こうしたラベルは方向性を示す分にはいいだろうが、しかし歴史上スーフィズムと同一視されている多種多様の教義と現象を言い表すにはあまりにも粗雑であるし、また同時にあまりにも狭隘に過ぎる。これではブーシャーンジュの念頭にあっただろう実体について示唆する以上の何かをもたらすことは決してできないし、人々が深い考えもなしにスーフィズムを便利なカテゴリーに放り込んで済ませてしまうのを助長するという意味では、手助けどころかむしろ妨害にすらなりえるだろう。こうした代替の名称を使用する以上はその正当な理由を示さねばならず、そのためには新たな名称の詳細かつ慎重な定義と分析を提示しなければならない。そして私が上述した3つの用語は、どれもおそろしく漠然としている点で悪名高いものばかりである。仮に十分な定義を提示できたとしても、なぜそれが「スーフィズム」の代替として適切なのかを説明する必要がある。これではスーフィーや学者たちの記述を、自分たちの定義を正当化するために取捨選択するといった方向に導かれかねない。自分たちの定義の実体には近づけるかもしれないが、それはブーシャーンジュの語った実体とは別物であろう。
より見慣れたラベルをあてがってスーフィズムを飼いならそうとするよりも、むしろ私たちは、飼いならされ定義づけられることを拒絶する何かがスーフィーの伝統の中にあると認めるところから出発すべきなのである。スーフィズムにはその他の伝統 –– カバラやキリスト教神秘主義、ヨーガ、ヴェーダーンタ、あるいは禅など –– と同種の類似性があるという示唆が有益な場合もあるだろう。だがこうした連想が、多少なりともスーフィズムそのものに接近するための手助けになるかと言えば、必ずしもそうではない。
そもそもSufism(sufi)という単語にしてからが、そのアラビア語原義をかえりみれば、イスラム文明における用語としては問題を含んでいる。それは数カ国語をまたいで広範に使用されていたとはいえ一般には、今ほどに幅広い意味を持たされていたわけではなかった。現在のこの注目度の高さは、それ自体が西洋の学者たちの著作に大部分を負っている。カール・エルンストがその優れたスーフィズム研究書の導入部において指摘した通り、この単語の名声はイスラムのテキストによってではなく、むしろ英国人のオリエンタリストたちによって与えられたものである。彼らは自分たちにとり魅力的で、自分たちの嗜好に合致したイスラム文明の多様な側面に言及するための、またイスラムという宗教にまつわる否定的な固定観念 –– そうした固定観念を喧伝したのもしばしば彼ら自身だったのだが –– を回避するための用語を必要としていたのである。1
イスラムのテキストにおいてはsufiという単語が何を意味するかについての合意は存在せず、著述家たちは常にその意味とその正当性について議論をたたかわせている。この単語を肯定的な感覚で使用する人々は、預言者ムハンマドを理想像として人間の完成を目指そうとする幅広いアイデアやコンセプトに関連づけた。否定的な感覚で使用する人々は、これをイスラムの教えの様々な歪曲と関連づけた。著述家がムスリムであればほとんどの場合、この単語に言及する際にはより含みのある姿勢をとっており、心底からこれを受容するでもなく、かといって非難もしていない。
現代のスーフィズム研究は、主要テキストに見られるこの単語に関する意見の相違を反映している。この名称が意味するものが何であるのかについて学者たちは互いに同意しておらず、その定義も解釈も彼らの研究の数だけ存在する。ここで私自身の定義を提供して混乱を深めることはしないが、しかしこの単語自体は使用するものとする。代替を用いるよりはましだろうというのがその理由である。ともあれ私の目的はあくまでも名称の背後にある実体に到達することであり、月を指さす者たちの系譜を示すことにある。
イスラムの文脈
西洋においては、特定のスーフィーの教えや実践に親しんではいるものの、スーフィズムとイスラムの関連性については無視するか否定するか、あるいは偶然以上のものを認めない人々に出くわすのはそうめずらしいことではない。スピリチュアリティと美の高貴なる源泉、などとスーフィズムを熱狂的に称賛する書籍も見かける。しかしイスラムについてはかろうじて触れていればいい方で、それも西洋が中世の頃から未だにひきずるステロタイプな用語によっている。一般にありがちなスーフィズムに対するこうした見方を強化するのが、スーフィズムに反発する多数の現代人ムスリムたちの反応である。このようなムスリムたちにはスーフィズムが「迷信の生き残り」または「文化的後退」、あるいは「真のイスラム」からの逸脱に見えている、と、イスラム文明についての偉大な歴史家H. A. R. ギブが半世紀も前に指摘した通りである。スーフィズムの実体にとりわけ敏感であったギブは、こういった態度はイスラム世界発祥の「純然たる宗教的経験の発露を抹消」しようと決意しているかのように見える、と論じている。2
要するに多くの人々が、ムスリム・非ムスリムに関わらず「スーフィズム」は「イスラム」とは異なるものだと –– 「スーフィズム」「イスラム」がどう定義されるかは別として –– 考えている。だがスーフィーと呼ばれた最初期の導師たちが9世紀(イスラム暦3世紀)に出現して以来、彼らは常に自分たちはイスラム的伝統の中枢と真髄を語っているのだと主張し続けているのである。彼らの視点にいくばくかの光を当ててみようというのが、本書における私の最初の課題である。イスラムにおけるスーフィズムに、彼らはどのような役割を課したのだろうか?現代にこの問いを立てるのは無意味だと考える人もいるかもしれないが、そうではない。何故ならスーフィズムの伝統を語る人々 –– 少なくともイスラム世界の中にいる当事者たち –– のほとんどは、今なお変わらぬ理解を保持しているからである。
初期のテキストでは、その他の無数の専門用語と同様に、同一の導師に関連づけられた「スーフィー」「スーフィズム」という単語についての数多くの定義がなされている。3 ひとつまたはそれ以上の、これらの定義を手始めにするのも可能ではあるが、スーフィズムは「純然たる宗教的経験の発露」に等しい、と述べたギブは正しかったと示すに留めておく方がよほど有益な場合もあるだろう。言い換えれば初期のスーフィー導師たちは自分たちについて、イスラムの伝統を活気づけている精神の代弁者であると考えていた。彼らの視点に立てばこの精神が生きている限り、たとえどこであろうとイスラムは自らの精神的・道徳的な理想に鋭敏であれるだろう。だがこの精神が衰えれば衰えるほどイスラムは、たとえ生きながらえたとしても色あせた無味乾燥なものとなるだろう。こうしたスーフィズムとイスラムの精神の同一視は、預言者の言葉として有名な「ガブリエルのハディース」に予見されている。この言葉の内容を考察することはスーフィズムの実体の、イスラムの歴史上に名を残しているその他の実体との相対的な位置づけに有用である。
このハディースによれば、預言者とその同輩たち数名が一緒に座っているところに男が現れていくつかの質問をした。男が立ち去ると預言者は、これが宗教(din)を教えるためにやって来た天使ガブリエルであったことを同輩たちに告げた。ガブリエルの問いと預言者の答えに概要されている通り、イスラムという宗教には3つの基本的な側面があると考えられる。たとえこれほどはっきりとした簡潔な概要がコーランのどこにも書かれていないにせよ、イスラムの教えの源泉であるコーランに親しんでいる者ならこの3つが、コーランの不変のテーマであることを認めるだろう。その3つとは「服従(islam)」、「信仰(iman)」、そして「美しい行い(ihsan)」である。4
預言者は服従を「神の他に神はなく、ムハンマドが神の預言者であることを証言し、日々の礼拝を行い、喜捨税を払い、ラマダンの間は断食をし、もしそうするだけの蓄えがあればメッカへ巡礼に行くこと」と定義した。彼は信仰とは「神、天使たち、啓典、預言者たち、最後の審判の日を信じ、善と悪のどちらもがそれにふさわしく裁かれるのを信じること」であると語り、美しい行いについては「まるで神を見ているかのように神に仕えなさい。何故ならたとえあなたが神を見ていなくても、神はあなたを見ているのだから」と言った。
最初の2つのカテゴリー、「服従」と「信仰」は、あらゆるイスラム学徒がよく知るところである。それは宗教の「五行」と「三原則」、あるいは実践と教条、またはシャリーア(啓示法)と教義に合致している。「五行」とは声に出して信仰を証言し、日々の礼拝を行い、喜捨税を払い、ラマダン月には断食をし、メッカ巡礼を果たすことである。「三原則」とは神の唯一性(tawhid)、預言者性、そして終末論を確信することである。注目すべきはハディースにおいて言及されている3つめのカテゴリー –– 「美しい行い」 –– が、その他2つに対する預言者の定義と同様に重要であるにもかかわらず、その意味がほとんど明白ではない点にある。
「美しい行い」がイスラムの最たる代弁者である学者たち、すなわち法学者たち(fuquha’)によって論じられることはない。彼らの自己認識によれば彼らの領域はシャリーア、すなわち五行ならびにムスリムが行う必要のあるその他の実践に限定される。第二の有力なグループである、カラームの科学と呼ばれる教理神学を専門とする神学者たち(mutakallimun)も、「美しい行い」を論じることはない。彼らの関心は三原則の意味を確立し解釈する教理の学問を、明瞭に表現しかつ護持することにある。いずれの学派も –– 法学者も神学者も –– 「美しい行い」を扱う興味もなければ、その能力も欠いているのである。そうしたわけで、解説を求めて彼らによる書籍を参照するのは時間の無駄である。この「美しい行い」を、自らに属する専門領域とするのがスーフィーたちなのである。
偉大なスーフィーの導師たちが、神とムハンマドの人類に対するあらゆるもとめに深くコミットする真正のムスリムであると自らをみなすのは何故かを理解するには、イスラムの伝統におけるこの三分割の論理と、「美しい行い」に課された特殊な役割を把握する必要がある。
最も外的なレベルにおけるイスラムは、人は何をすべきか、また何をすべきでないかを命ずる宗教である。実践の正誤についてはシャリーアによって詳述され成分化されている。シャリーアとは体系化された法の集大成であり、第一義にはコーランの教えと預言者の実践に基づいているが、学者が世代を重ねるにつれ調整と洗練が加えられていった。適切な行為を規定し、またその行為はすべて身体により実践されるものであること、またそれが伝統の継承と認識を支えていることからも、シャリーアはイスラムの「肉体」に例えられる。
より深いレベルにおけるイスラムは、世界と自らについて理解するすべを教える宗教である。この第二の側面は心に対応している。神、天使たち、啓典、預言者といった信仰の対象を方向づけるものであるため、伝統的に「信仰」と呼ばれている。コーランとハディースは絶えずこれらに言及しており、その性質と実体の探索がカラームや哲学、また神学的スーフィズムといった様々な学問の基礎となった。これらの対象を全体像として真剣に探求しようと試みれば、人間の意識の最も深い疑問の探求にならざるを得ない。多くの西洋の歴史家たちが研究し、称賛したイスラムの偉大な哲学者たち、数学者たち、天文学者たち、そして医者たちが訓練づけられていたのは宗教のこうした側面である。同様に、スーフィーたちのうち最も著名な人物たちも、信仰の対象に関する神学的知識に完全に依拠している。
最も深いレベルにおけるイスラムは、あらゆる存在と調和できるよう自らを変容させるすべを教える宗教である。行動も理解も、あるいはその両方を一緒にもってしても、それで人間的に十分であるというわけではない。行動と理解が、人間の長所と完成をもたらすような方法に焦点が合わされている必要がある。この長所とは、神のイメージに沿って創造された原初の人間に固有の、本質的な傾向(fitra)である。イスラムの第一の側面が、神との関係、他者との関係といった相対的な状況において実践されるべき行為と理解されるならば、第二の側面とは自己と他者のそれであり、第三の側面は神への接近を実現するための道である。宗教的生活についての感性を持ちあわせる者ならば誰であれ、この第三も側面に焦点をあてた議論に用いられる様々な用語が宗教の核心であることが即座に認識可能であろう。そこには愛、美徳、完成が含まれている。
1. Ernst, The Shambhala Guide to Sufism (Boston: Shambhala, 1997).
2. “The Structure of Religious Thought in Islam” (1948), reprinted in Gibb, Studies on the Civilization of Islam (Boston: Beacon Press, 1962), p. 218.
3. For a good selection of these definitions, see J. Nurbakhsh, Sufism: Meaning, Knowledge, and Unity (New York: Khaniqahi-Nimatullahi Publications, 1981), pp. 16–41.
4. For a detailed study of the Islamic tradition based on this ancient division into three dimensions, see Sachiko Murata and W. C. Chittick, The Vision of Islam (New York: Paragon House, 1994).