映画鑑賞:『ミュータント・ニンジャ・タートルズ』2作め

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これは『ミュータント・ニンジャ・タートルズ』じゃないです。ムスリムです。正しくは、「映画に登場するムスリム」です。

Islam in Western Cinema, Part 1 – The Exotic Muslim, from the Exotic Land
Islam in Western Cinema, Part 2 – The Violent, Militant Muslim
Islam in Western Cinema, Part 3 – The Pious Muslim
Islam in Western Cinema, Part 4 – The Journey through American Islam

シカゴ大学でイマムを勤めるオメル・ムザッファル氏のエッセイ、「西洋の映画におけるイスラム」シリーズを読んでいました。著名なところで『アラビアのロレンス』から『マルコムX』、『アルゴ』まで、西洋シネマに表れるイスラムの、類型というかパターン別にパート1から4まで、「1. エキゾチックな土地からやってきたエキゾチックなムスリム」「2. 暴力的で好戦的なムスリム」「3. 敬虔なムスリム」そして「4. アメリカのイスラムを巡って」というテーマでつらつらと書かれています。おもしろいです。

「4. アメリカのイスラムを巡って」には、「ベクデル・テストに倣って」、鍵となるポイントをまとめた「シンプルなテスト」、というのがシリーズの総括的な感じで示されています。「なんかいいネーミングが見つかるまでは、ムザッファル・テストとでも呼んでください」。クリアしていないとテストに合格したとは言えない、というポイントは以下の通り:

1. 言葉がちゃんと通じる。
舞台が西洋のどこかで、使用言語も西洋のそれで、役名もある登場人物として二人かそれ以上のムスリムが会話を交わしているシーンなら、アクセントがあったとしても、あくまでもごく一般的なアクセントであること。映画の中のムスリムが、わけのわからないしゃべり方をするのってそれほど珍しいことではない。完全にインチキな訛り方がほとんど日常茶飯事みたいになっている。

2. ふるまいがちゃんとしている。
非ムスリムについてだの、帝国主義だの暴力だの性的堕落だの「以外」のトピックスについて、べつだん怒り狂うこともなく会話を交わしていること。映画に登場するムスリム・キャラのほとんどは、感情面に問題を抱えており、政治の話題しか口にせず、あるいは自制心がないふうに描かれている。

3. 女性は、人間です。
登場人物が女性の場合、それっぽい衣裳を着てるか着てないかでキャラ設定するのは×。映画におけるムスリム女性は、非ムスリム女性よりもさらにモノ扱いされる傾向が強い。だいたい、普段からことムスリムとなるとそれが政治家だろうが女優だろうが、日光浴が趣味の人物だろうがおかまい無し過ぎ。話題が、着ている衣類に集中し過ぎ。

4. 敬虔であることと、ナイーヴであることは違うでしょ。
映画に登場する信心深いムスリムというのは、ナイーヴな人物として描かれることが多い。ナイーヴで、無教養で、世間知らずで、非ムスリムによって啓蒙される(されないといけない状況になる)、みたいな描かれ方。

5. ちゃんと自律している。
イスラムなり、ムスリム社会なりから西洋人によって保護されたり、ものを教わったり「文明化」されたりせねばならない、というのは×。西洋の映画に登場するこの手の「白い救世主」の原型になってるのが『アラビアのロレンス』の主人公。

6. ちゃんと実際のイスラムをやっている。
(宗派ごとのバリエーションも含めて)神学的にも儀式的にもちゃんと実際のムスリムがやっているのと同じようにほんもののやり方でやること。『ロビン・フッド』のモーガン・フリーマンの礼拝のやり方とか、たとえ善意というか好意的に描いていたとしたって、まったくのでたらめというのは×。

以上。そんな感じ。6番めの、「モーガン・フリーマンの礼拝のやり方」は以前にManiac Muslimのハムザ氏もねたにしていました:

一体どうしてこんなことに。ちょっと調べればすぐに分かることだと思うんですが。

個人的には4があれですね。ストライクです。これ、映画に限らず実生活でもありがち。細かなところで、何の罪もないジョークを言っただけで「えっ、ムスリムがそんなこと言っちゃっていいの?」とか言い出す人とか、わりといたりいなかったり、いたりします。「敬虔で純粋で疑うことを知らないムスリム」「貧しいけれど心はきれいなムスリム」「無実のムスリム」「無辜のムスリム」「かわいそうなムスリム」じゃないと受けつけない人も、ムスリムかムスリムでないかに関わらず(これ重要)、わりといたりいなかったり、沢山いたりします。

「ごくふつうの日本人なので、宗教とかほんとよく分からなくて」と自称なさるような方まで、「ほんとよく分からなくて」とおっしゃるわりには、宗教に対する期待っぽい何かがめちゃくちゃ高かったりもするし。「え、そんなの聞いたことがありません」みたいなトリビアとか、いっぱい詰まってたりするし。何なんでしょう。何なんですかね。うーん。何なの。まあいいや。

*****

で、観てきました。近隣の映画館はどこもかしこも吹替え版ばかりで、字幕版を上映しているところを探すのがちょっとたいへんだった。

前作、ビジュアルが公開されたときには世界じゅうの亀愛好家が「これじゃない!」と悲鳴をあげていました。わたしもその一人でしたがもう慣れた。

と、いうか、今「前作」と言いましたしタイトルにも2作めって書きましたけれども、ここで言ってる「前作」というのはあくまでもマイケル・ベイ監督のそれであります。ニンジャ・タートルズは映画とか、アニメとか実写のTVシリーズとか映画とか色々たくさんあり過ぎて、なんかどれがどうオリジナルなのかということ自体がちょっと特定のしようがない感じがあります。原理主義者的にはwikiあたりに記述されているような「白黒の手刷り同人誌」とか答えるんでしょうけれど、そんなエピソードも後付けの神話にしか聞こえない感じもします。そしてわたし個人としては、この「感じ」をだいじにしていきたい。なんかいつごろからだか知らないけれど、誰でもなぜだか知っている、下水道に住んでるもの言う亀。ねずみの先生。あー、あれわりとおもしろいよね。キャラの名前が謎過ぎて笑うよね。好きだよ。ピザが好きなんだよね。タイトルがやたら長いんだよね、ニンジャ・タートルズ。ミュータント・ニンジャ・タートルズ。ティーンエイジ・ミュータント・ニンジャ・タートルズ。10代でミュータントで忍者で亀。わたしの入り口はケーブルTVの30分特撮実写シリーズでした。ビジュアル的には確かこんな感じだった:

Teenage-Mutant-Ninja-Turtles

画面左から、レオ、マイキー、ラフ、そして前列の真ん中(ストーリーの立ち位置的にはここじゃない)でしゃがんでいるのはドニー。マスクの色でキャラクターを見分けているうちはまだ修行が足りない。マイケル・ベイ氏に加点すべきところがあるとするなら、マスク無しでも見分けがつくくらいには四人の、というか四匹の描き分けが(外見的には)できてるあたりでしょうか。

で、まあ観てきたんですよ。ひたすら亀が好き、好きだった、あのTVシリーズおもしろくって大好きだったんだよね、というそれだけで観にいってる。だから何の意味があるのかよく分からないけど意味ありげにくるくる回転するカメラアングルとか、遠近感がくるいそうになるくらい微細に作り込まれた小道具とかカーチェイスがほにゃららとか「TEDトークよりコミックコンなのよね」とか「豚でも飛べた」とか「ドローン発進」とか、そういうのはもういいからええい亀を見せろ亀を、ってなった。いや、亀ももちろん見られましたし、これ以上どう亀を見せろというんだというくらい亀も見られたのでいいんですよ。いいんですけど、もっと亀を。亀を見せろ。

クにソがつくほどくっだらなくて、楽しかったです。