母屋の方に「自習室」と称して、読みかけのものを放り込むということをやり始めました。あえて「読みかけのもの」とかと言う必要があるのか。むしろ読みかけじゃないものがあるのか。他も読みかけばっかりじゃないのか、あんた。そういう心ないことを言うのはやめてください。あなたに何が分かるっていうんですか。生きているといろいろ大変なんですよ。たぶん一番最初に終わらせられそうなのがアル=カラーバーズィー『スーフィーの教え』です。
『スーフィーの教え』、通称Ta’arruf, 正しくはKitab al-Ta’arruf li-madhhab ahl al-tasawwuf, 『アフル・アル=タサッウフのマズハブの手引の書』とかそういう感じの題名です。アフル・アル=タサッウフすなわちいわゆるスーフィー、スーフィズムの人々、マズハブは何だろうな、ポジションとか立ち位置とか立場とか見解とか、そういう感じでお願いします。A. J. アーベリーさんによる英訳(1935年)を底本にしています。
アーベリーさんは『イスラムの神秘主義』が日本語になっているR. A. ニコルソンさんのお弟子さんでご友人だった方です。googleさんにお尋ねするとこんな感じのが返されてきた:
「翻訳者」。そうなんだ。まあそうとも言えるか。でもなんだか新鮮。でもEncyclopaedia Iranicaのアーベリーさんの項を見たら、うわあ。こんなにたくさん翻訳してらしたんですね。あらためてすごいや。
井筒俊彦翁は『ルーミー語録』の附記で、アーベリーさんの翻訳仕事(『ルーミー語録』、いわゆる『講話』はアーベリーさんも英訳している)を「アーベリーの英訳は例によって例のごとくで、良くも悪くもない」と前置きしつつ
「ただ顕著な欠点は、無味乾燥で、正に砂を噛むような文体に訳されていることである」
「ともかく恐ろしくつまらない」
「それに脱落と誤訳もある」
と、まあ手厳しい。何を言ってもどうせ日本語だしばれないだろう、とタカをくくって(るとしか思えないですが)、ひどい言葉の暴力を浴びせています。
実際に読んでみれば時と場合によって一文、一文が嘘だろっていうくらい長くなるきらいがあるけれど、砂を噛まされている気分になるというほどのあれではないし、あと何を言ってもどうせもう現世にいないし大丈夫大丈夫ばれないだろう、とタカをくくって言わせてもらうと、アーベリーさんがつまらないんじゃない。井筒翁がおもしろ過ぎるんだと思います。っていうか、原著を読める人が翻訳を読んで「つまらない」って何を言っているんだよ。クリス・ロックのスタンダップをあえて副音声で楽しみたいとはわたしも思いませんよ。そのあたりに、なぜ井筒翁の翻訳がおもしろいのかの理由が見つかりそうな感じもしますが。
で、翻訳屋目線でなら気にならなくもない指摘は三つめの「脱落と誤訳」ですが、アーベリーさんが訳したアラビア語やペルシャ語の御本についてこういう指摘をした人がいるかというと、いち一般読者である私に限って言えば上記の井筒翁の他には見たことがないです。ペルシャ・オリジンでペルシャ語ネイティブの先生が書いているような解説書なんかでもふつうに参考文献に挙げられているし、アーベリー訳のコーランは今でも非ムスリムのそれとしては最高峰くらいのことは言われているし。文体についても、ニコルソンさんの方は本当に正確な点はありがたいが学者英語で難解だ、みたいに言われているのは確かだけれども、アーベリーさんの訳については、例えばフランクリン・ルイスさんなんかが「詩的に訳そうと努力してるし、そしてその努力はそこそこ実ってる。成功してる方だと思う。おれは評価してるぜ」的なことをあちこちで書いていたりします。
そんなとこですかね。やーまーわたしは「評価する」とかえらそう言えるあれじゃないです。感謝しかないです。