R. バダウィ『知識人、中傷、異端審問:トゥルキー・アル=ハマドの場合』


1000 Lashes: Because I Say What I Think

2. 知識人、中傷、異端審問:トゥルキー・アル=ハマドの場合

サウジアラビアのイスラム主義者の活動家たちは、その多くが遠い昔に過ぎ去った時代の復活を夢見ている。彼らが夢想しているのは、中でもとりわけアッバース朝カリフのアル=マフディーや、それからウマイヤ朝のアル=マアムーン、アル=ムタワッキルといったカリフたちの時代だ。こうしたカリフたちがその敵対者を追放したり、殺害したりしたことはよく知られている。彼らは敵対者を「背教者」と中傷したり誣告したりした。そうすることで、政治的なイスラム支配の下に自分たちの行為を正当化したのだ。

現代のイスラム主義者たちは、歴史が再び繰り返すのを望んでいる。彼らにだって夢を見る権利はある、それは誰も否定していない。しかし彼らの行為はもはや夢を見るといった範疇を越え、すっかり組織立てられた協賛のシステムに変化している。宗教と信仰について、彼らは自分たち自身の見解を世間に提示してみせる。そしてその歪んだ見解を、人々に強要して苦しめる。最近では自分たちと他人をひき比べ、どちらの方がより預言者 –– 彼の上に平安あれ –– に愛されているか挑んだり争ったりするという暴挙に出るまでになった。

そうとも。21世紀にもなった今、そういうことが起きているのだ。

ハムザ2がツイートしたメッセージに拒絶反応を示した多くの人々が、当局が公的な判断を下す前に彼を断罪した。飢えた吸血鬼たちが、彼の血を求めて沢山のツイートを発した。

ハムザのツイートと啓発運動を一緒くたにした瞬間、それは中傷者たちが自分たちの低劣さのレベルを更新した瞬間だ。彼らは鈍重な魂と鋭利な口先を持っていて、文化的な暮らしや啓発のために尽力している者なら誰かれ構わず自分たちとの醜い争いに引きずり込もうと探しまわっている。彼らが争いたがるのは、啓発者たちのロビー活動を自分たちに対する攻撃であり、反宗教的な背教運動とみなしているからだ。

(ハムザ・)カシュガリとリベラル運動を関連づけようと、過激なイスラム主義者たちは疲れ知らずのありあまるエネルギーでもってせっせとやることをやり続けていた。自分たちの支持者に対して、この国のリベラリストのうち、中でもとりわけ最重要人物のひとりがカシュガリなのだと訴えた。そんなのはまったく真実からはほど遠い。カシュガリがむしろサウジアラビアのムスリム同胞団と近しい仲なのは周知の事実だ。彼がリベラリズムを認めているだなんて一度も聞いたことがない。彼自身、自由主義を支持するなんて言ったこともない。

カシュガリに対する迫害は、国王の勅令でもって布告された「印刷物ならびに出版法(Law of Printed Material and Publications)」のスキを狙おうとする過激派たちの目論みだ。間違いもいいところで、何の価値もない。彼らは自分たちに賛同せず、自分たちと違う意見を述べようとするあらゆる作家たちや自由思想の持ち主を訴追したがっている。国王の勅令でもって施行可能となっている現行の法ではなく、自分たちのイデオロギーを支える自分たちのシャリーア法でもってカシュガリを裁きたがっている。

言論の自由に対する反対運動は1998年に始まった。作家トゥルキー・アル=ハマド3が背教の罪で訴えられた年だ。過激派たちは彼を追いまわし、彼の斬首を要求した。

ここで最も重要な疑問は、こんなにも敵意に満ちた反応を引き起こすような、いったい何をアル=ハマドが言ったのか、ということだ。彼はその小説の中で、こんな一行を書いた。「神と悪魔は、同じ硬貨の表と裏だ」。たったこれだけだ。

アル=ハマドは自分の立場を、多くはインタビューの中で何度も繰り返し説明した。問題視されたその一文は、アル=ハマド自身ではなく彼の小説の登場人物の台詞なのだ、と。宗教的な話としてなら、シェイフ・ムハンマド・ビン=オスマン4によればメッセンジャーは自分が運ぶメッセージに対する責任を負わない。字義的な話としてなら答えは明瞭だ。表と裏、すなわち神と悪魔は決して相容れない、という意味なのだから。神はその栄光ある善の道の方を向いており、悪魔は悪の道の方を向いている。その顔はどちらも決してお互いの顔を見ようともしなければ、お互いの目を覗き込もうともしない。同じ道を歩むこともなければ、同じ方向を見ることもない。

小説の中でこの台詞を言った登場人物の名はハーシム。感情をひどく傷つけられた彼の心に、こうした考えが浮かんだ、という場面だ。それでも、当時の意思決定の責任者たちには理解があった。そこで彼らは賢明なやり方でアル=ハマドに対するファトワの嵐を止めさせ、公的にもこの危機に終止符を打ったのだった。

それでもイスラム主義者たちの運動は決して終わらなかった。

14年もの間、イスラム主義者たちは一般大衆に向けてアル=ハマドをあたかも危険人物であるかのように虚偽の喧伝をし続けた。彼は冒涜者であり不信仰者であると訴え続けた。彼らが握っていた唯一の証拠は小説の中の登場人物の台詞、それも文脈から切り離されて意味を失い空っぽになってしまった一行のみだった。

おおっぴらにアル=ハマドを中傷する目的で彼の敵対者たちが、勝手に改ざんした動画をYoutubeにアップロードしたこともある。動画には論争の的となった例の一文だけを残し、著者の説明を省略するという編集がされていた。アル=ハマドの敵対者たちは大成功を収めた。つぎはぎだらけのビデオに多くの人々が騙され、すっかり信じ込んでいたのだから。

ぼくはジェッダの文芸クラブで開催されたアル=ハマドのQ&Aイベントに出席したときのことを覚えている。参加していた聴衆からの質問タイムになったとき、一人の老人がステージに近づいてきた。「わしはこの人のことは良く知らんが」、彼は言った。「アルハムドゥリッラー(神よ、感謝します)。わしはこの人の書いたものはただの一行も読んだことがない。ただこの人がアッラーに背く言葉を吐いたというのは聞いていた。それで神の思し召すまま、その男の顔を見てやろうとここへ来たんだ」。

事実をねつ造して他人を利用する連中に感情面で操られてしまう人々は大勢いる。あのときの老人だってそうした大勢の、ごくふつうの人々のひとりに過ぎないのだ。

2. バダウィがこの記事をブログに投稿した当時、ハムザ・カシュガリはアル=ビラド紙のコラムニストだった。2012年の初め、カシュガリは彼が発信した3つのツイートがイスラムに対して批判的であるとみなされ、サウジ当局者の標的にされた。その間にカシュガリはマレーシアへ逃亡したが、サウジアラビアに強制送還された。それから2013年末までの約2年、彼は刑務所に収監された。ツイートはマウリド・アン=ナビー(預言者の聖誕祭)の祝日に寄せて発信されたものだった。

「あなたの誕生日、私はあなたの革命的なところが大好きだ。あなたはいつでも私を勇気づけてくれる。でも神聖視するのは好きじゃない。私が祈るのは、あなたに対してじゃない」
「あなたの誕生日、どこにいてもいつもあなたを見ている。私にはあなたの大好きなところもあれば、嫌いなところもある。そして分からないところはもっと沢山ある」
「あなたの誕生日、私はあなたに頭を下げたりしない。あなたの手にキスしたりしない。それよりもあなたの手を握りたい、対等の友人として。あなたが私に微笑んでいる間じゅう、私もあなたに微笑みたい。友人としてあなたと語り合いたい、それ以外の関係なんてあり得ない」

3. トゥルキー・アル=ハマドは著名なアラブ人作家であり知識人。主要な作品に三部作Atyaf al-Aziqah al-Mahjurahがあるが、サウジアラビアではその他多くの作家と共に発禁処分を受けている。

4. シェイフ・モハメド・ビン・オスマンはサウジアラビアの主要な宗教者の一人であり、アラブ世界における最も有力なスンニ派の精神的指導者でもあった。2001年没。


[以下、めも][随時追加]前回に続いてライフ・バダウィ『1000 LASHES』から、”2. Defaming the Intellectuals and the Inquisition Courts: Turki al-Hamad as an Example””を読んでみました。

ハムザ・カシュガル氏については「預言者ムハンマド「嫌い」とツイート、サウジ記者に死刑の恐れ(AFP)」という記事がありました。それからニューズウィーク日本版「独裁者たちのSNS活用法」など。

カシュガル氏の預言者ムハンマドに対する距離感というのは、私などにしてみれば適切という他はないように感じられるのですが、しかしそうは思わない人々がいるのも確かなことです。「そうは思わない」ことそれ自体は一向に構わないのですが、かといってそこで「その距離感けしからん」と、例えばカシュガル氏に対してそうしたように距離を詰めてこようとする人が中には若干いるのが困りものです(どうでも良いですが「距離感」と「距離」というのは大いに異なるものですね)。

個人的に一番興味深く読んだのは7段め、「印刷物ならびに出版法(Law of Printed Material and Publications)……」のくだりあたりです。現在の政治体制を力こぶでもって転覆してやろうだとか、そういう不穏な意図はないのだというのを強調しているようにも読める箇所です(そして実際にそうなのでしょう)。

めもはまたいずれもう少し追加することになるかと。

R. バダウィ『天文学者を鞭打ちに』


1000 Lashes: Because I Say What I Think

3. 天文学者を鞭打ちに

おもしろ系イスラム説教師の一人が、天文学者5どもは自分たちの行いの結果の重大さと向き合うべきだと命じている。「近頃の天文学者には困ったものだ」と彼は言う。「彼らはシャリーア上の見解に反している」。自分たちは天文学という科学に反対しているのではない、とイスラム学者たちは言う。「それ(天文学)は長い歴史を持つ学問だ」。そうして彼らはこう付け加える、「しかしシャリーア上の見解を疑ってかかる者は断固として拒否する」。どうやら説教師たちは、天文学者たちなんていうのは単なるアマチュアか青二才に過ぎず、シャリーアの専門家の足元にも及ばないと考えているらしい。過去30年くらい、ずっと星を観察し続けていたのは天文学者たちの方なんだけど。

実を言うと、ぼくはこういう説教師たちには全力で注目している。何しろ彼らときたら次から次へと、ぼくらがまったく知りもしなかった隠された事実を教えてくれるからね。ぼくも知らなかったけど、どうやらシャリーア天文学なんていうのがあるらしい。何て興味深く美しいコンセプトだろう。こんなの、ぼくの乏しい経験だとか宇宙や惑星に関する研究だとかからは思いつきもしなかった。さっそくNASAに電話して、望遠鏡なんか捨ててぼくらのシャリーア天文学者たちを雇うようぼくからも進言しよう。NASAのポンコツ望遠鏡なんかより、彼らの観察力の方がよほど優れてるみたいだし。

真の科学を学ばせるためにもNASAは自分たちの科学者を何人か、ぼくらの説教師のところへ派遣するべきだと思う。ぼくらのシャリーア天文学者の偉大なる教室で、NASAの連中が学生らしくお行儀よくひざまづいて講義を受けるんだ。いっそのこと世界じゅうのありとあらゆる分野の研究者たちに、オフィスもラボも閉鎖するよう呼びかけよう。全員が全員、今いる研究センターだの大学だのを立ち去って、ぼくらの栄光なる説教師たちを中心とした知的サークルにただちに加わるべきだ。世界じゅうの科学者たちは、あらゆる最先端の科学をぼくらのシャリーア学者から学ぶべきだ。医療もエンジニアリングも、化学も地質学も、物理学も核科学も何もかもだ。海洋学、薬学、生物学、人類学、とにかく何から何までぜんぶ勉強させなくてはだめだ。

もちろん肝心の、天文学や宇宙学についても学ばなくてはいけない。だってそうだろう。知っての通り、あらゆる物事についての決めゼリフを持っているのはぼくらの説教師 –– 彼らに長寿と繁栄あれ –– をおいて他にいないのだから。全人類は観念して、ためらうことなく疑うことなく彼らに心を明け渡すべきだ。

世界じゅうのあらゆる国が、あらゆる分野の科学者たちをあちらこちらから招へいし、経済的な報酬を与え、考えられる限りの技術的・実務的サポートを提供している。そうした国々はそうした科学者たちに誇りをもって国籍を付与し、知識と発展を探究する彼らのあらゆる挑戦を援助する。

その一方でぼくらは、飲酒をした者には80回の鞭打ちを宣告する。これが天文学者なら何回ぶんの鞭打ちに相当するのか、ぼくには見当もつかないけれど……。

5 保守的なイスラム学者は、物理的現象に関するコーランの節を字義的に解釈し、またそうした節はその正しさにおいて論駁不可能なものとみなしている。彼らによる解釈のいくつかは科学的知識と相反する。たとえば地球の形状については彼らは平らであると主張する。また天あるいは宇宙(彼らに言わせれば、天は多層的に配されている)、惑星の軌道についても同様である(彼らに言わせれば、太陽が地球の周囲を公転している)。現在に至るまでサウジのイスラム法学者たちは、この世界観が正しいことを特に力説しており、科学的な視点を支持しようものなら異端者として非難する。


[以下、めも] ライフ・バダウィ『1000 LASHES』から、”3. Let’s Lash Some Astronomers”を読んでみました。『1000 LASHES』は表紙を含めて60ページほどのペーパーバックで、2010年から12年にかけて書かれたエッセイを中心に15編プラス獄中記が収録されています。前書きを寄せているのは宇宙物理学者のローレンス・クラウス教授。

ライフ・バダウィってどこの誰ですか、という方はこちらの「サウジ最高裁、ブロガーへのむち打ち1000回と禁錮刑を支持(AFP)」をご参照ください。←では「市民ジャーナリスト」なんていう肩書きで呼ばれていたりしますが、まあご覧の通りで全体的にジャーナリスティックな文章ではありません。たいていは「ブロガー」とか書かれていることが多いようです。

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カフヴェ

あれからがんばっていちぢくのシェルベトを作りました。「がんばる」などと、えばるほどのことではないですけれども。ペクメズのシロップを使いました。ドライ・フルーツの「感じ」と、ペクメズのシロップの「感じ」がお互いにとても良く似ていて楽しい飲み物になりました。

いちぢく×ぶどうの組み合わせですが、どちらもなまのくだものだったときの酸味がうっすらと遠くの方に蜃気楼のようにかすんでいる「感じ」が似ているのです。結果「え?いいの?ほんとに?」っていうくらいふわふわと甘い。おいしゅうございます。

甘いものを口にした後は、


Sufi Cuisine
カフヴェ(コーヒー)

何とゆたかな土地か、わたしたちの王国は
第九の天から注がれるカフヴェを飲み
友と集えば、アーモンドのヘルヴァが雨とふる
(『ディーワーン』より)

御婦人よ、わたしのカップにカフヴェを注いでおくれ
何度も、何度でも注いでおくれ
しらふのまま貴女を訪ねる男ほど不幸な者はない
しらふは避けるべきだ 彼も、そしてもちろん貴女も
(『ディーワーン』より)

メヴラーナはコーヒーについて語るのに、アーモンドのヘルヴァをお供にしています。それ以前のコンヤでは、コーヒーといえばロクム(ターキッシュ・ディライツ)と水を添えるのが伝統的な楽しみ方でした。現代ではコーヒーはチョコレートをはじめ、様々なお菓子と一緒に楽しまれています。

コーヒーを淹れるときは表面に浮かぶ泡が消えてしまわないよう、前もって細かな注意を払い、用心して淹れなければいけません。あなたが淹れたい杯数分の量を淹れるのにふさわしい大きさのジェズヴェ(トルコ式コーヒーを用意するのに使われる、把手のついた金属製の小鍋)を準備しましょう。二人分のコーヒーを淹れるのに三人用のジェズヴェを使うようでは、コーヒーは美しく泡立ちません。あまり強くかき混ぜても、泡はこわれてしまいます。さらにコーヒーが沸き立ってからあわててジェズヴェのふちや把手をつかんで火から降ろそうとしたり、ジェズヴェを火にかけたままゆすったりしていては、確実にコーヒーが吹きこぼれてしまうことでしょう。

砂糖抜きのコーヒーを「サーデ」と呼びます。甘いコーヒーには、小さじ2杯の砂糖が入ります。わたしのコーヒーのレシピは「オルタ(ミディアム)」です。最高においしいコーヒーを味わうには良質のコーヒーカップを湯をわかした小鍋に沈め、弱火で少なくとも8分は温めてください。

[材料]1人分
水 トルコ式コーヒーカップに1杯
上白糖 小さじ1/2杯
トルコ式コーヒー 小さじ2杯

[作り方]
ジェズヴェに水をそそぎ、砂糖を加えて火にかける。温かくなったらコーヒーを加え、すっかり水と混ざるまでかき混ぜる。沸騰したら表面にできた最初の泡をスプーンですくいコーヒーカップに移す。ジェズヴェに残るコーヒーも、5、6回同様に繰り返し、最後に泡の上から注いでできあがり。

私、確実に吹きこぼしちゃうクチだわー。

本当はもう2篇ほど『ディーワーン』の抜粋が添えられているレシピですが、ちょっと力尽きたので省略。私は「サーデ」のコーヒーに角砂糖を添えてもらうのが好きです。舌の上に角砂糖を乗せてからコーヒーをすすります。ほん、とう、に美味しいです。

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シェルベト、「最後のミルクの夜」

粉と脂を火にかけて、60分ねりねりと練り続けるのはもう少し涼しくなるまでやめておくことにしました。人間はそもそも弱くつくられているいきものなのだそうです。しょうがないです。

それでも未練がましくページをめくっていたら涼しげ×すてき×ハードル低そうなところにたどりつきました。


Sufi Cuisine

飲料

シェルベトの小瓶のような色とりどりの果実、
ひとつひとつ、味も香りも違った特別なもの。
(『ディーワーン』より)

きみが病をえたと聞いて、治療を与える千種のシェルベトが
きみに愛と健康を届けたがり、台所で沸騰し陶酔しているよ
(『ディーワーン』より)

13世紀から現在にいたるまで、バラエティゆたかな飲み物やシェルベトの数々はコンヤ料理の誇りです。蜂蜜のシェルベト、ミルクと蜂蜜のシェルベト、ばら水のシェルベト、いちぢくのシェルベト、ざくろのシェルベト、砂糖のシェルベト、ミルクと砂糖のシェルベト、そしてシラ(Sira)と呼ばれる、ほんの少しだけ発酵させた葡萄のムスト。以上がメヴラーナのシェルベトです。いちぢくのシェルベトを除いてどのシェルベトも、コンヤでは今でも飲み継がれています。メヴラーナの書物には見つけることはできませんでしたが、ヴェルジュースとペクメズのシェルベトもコンヤ料理のひとつに数えられるでしょう。ワインやアイラン(ヨーグルトに水と塩を加えたもの)、コーヒーなども人気があります。メヴラーナの著作のおかげで、16世紀になるまでイスタンブールにはなかったコーヒーを、コンヤでは13世紀の頃から既に飲んでいたことが分かります。

自家製のシェルベトに加えて、現代では工場製のフルーツ・ジュースやソーダ、コーラなどもとても良く飲まれているようです。

コンヤはイスタンブールより300年先をいってますのよ、と仰ってます。この御本は全体的にこんな具合の著者の郷土愛がひょこ、ひょこと顔をのぞかせてくるのもたのしい。好きです、こういうの。

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「雪のヘルヴァ」

暑いし、汗は流れてうっとおしいし、昼寝以外に何もしていないので家の中は散らかるし(しかし昼寝しかしていないはずなのにどうして散らかるんだろう?)、何もかも嫌になってまたふて寝して起きてみるとすっかり日が暮れていて、おでこに汗まみれの髪がへばりついていたりほっぺたにタオルの跡が残っていたり、見苦しいことこの上もない。

こういうときは何かうつくしいと思えるものにふれたい。

Sufi Cuisine

ヘルヴァ

–– こころ優しい者の愛の中心では、あらゆる悲しみが
葡萄酒、焼肉、砂糖とヘルヴァのように並べられる ––
(『ディーワーン』、『マスナヴィー』より)

–– 指が長ければ手に入れられるというものではない
神において求める魂こそがヘルヴァを食べるのだ ––
(『マスナヴィー』より)

ヘルヴァは、メヴラーナの作品の中にもっとも頻繁に登場するお菓子です。彼の『講話(Makalat 1巻)』では、シャムス・タブリーズィーがペクメズのヘルヴァについて以下のように語ったとされています。

–– 愛情を込めて優しく撫で続ければ、さとうきびから砂糖の結晶を得られよう。時間をかければかいこから絹を得られよう。ゆっくりと時間をかけてなすべきことをなせ。青い葡萄の果汁からヘルヴァを得られる日がこよう。
(『マカーラート』より)

イレーネ・メリンコフによれば、メヴラーナの時代には「ヘルヴァの儀式」が執り行われていたとのことです。このことからも、オスマン朝のスルタンたちによる「ヘルヴァの集い」の歴史は、遠くセルジューク朝にまでさかのぼれることが分かります。「ヘルヴァの集い」は、コンヤではつい最近まで必ずといっていいほど頻繁に行われていました。サーデト・オンギュンは「1950年代のコンヤでは、人々は寒い冬の夜にしばしばお互いの家に集まった。夕食後の時間に訪れる客たちは、到着するとまずアラバシュ(熱々の、辛いチキン・スープに冷たいパン生地を添えたもの)かパパラ(乾いたパンと肉汁を使った料理)を振る舞われ、続いてその家庭の男性たちが作ったペシュメネまたはピシュマニエ(綿菓子にも似た菓子)か、女性たちが準備した麻の実入りのヘルヴァが供される。好みによって、その他の種類のヘルヴァが用意されることもあった」と書いています。テレビという娯楽の登場により、コンヤにおいてヘルヴァの集いは本当にすっかり珍しいものとなりました。

「青い葡萄」としたのは「未成熟の葡萄」のことです。これをしぼったジュースは英語だとヴェルジュース、ギリシャ語ではアグリーダなどと呼ばれて酸味づけの調味料に使われています。フランス語ではヴェルジュと言うらしい。また「ヘルヴァの『集い』」としてあるのは、「夜話会」「談話会」などとも訳されるソフベット(sohbet)の一種でしょう。ちなみにソフベットは5年前にユネスコの無形文化遺産に登録されていました。「へええええ……」となりそうになりますが、そんなことよりもヘルヴァです。ヘルヴァ!わたしの脳内事典には「お菓子のアーキタイプ。粉と脂と甘味と料理人の体力でできている」と記してあります。

helva
皿の下半分に盛りつけられてピスタチオのかかってる方のそれ、それがヘルヴァ。舌で押しつぶせるくらいのやわらかさですが、そこをあえて噛む。香ばしい生地から、煮詰まって濃厚になった甘味や、最初はふんわりしていて後からどっしりとした重さをもってのしかかってくる油脂のうまみがにじみ出てきます。

アーキタイプなどと大きく出てしまうと反論もあるかもしれない。しかしひとくちでも食べたことのある人ならきっとご納得頂けるのではないか。ご納得頂けない方はウィキペディアでも参照してください:

ハルヴァは、穀物、胡麻、野菜、または果物に油脂と砂糖を加えて作られる菓子。東はバングラデシュから西はモロッコまでの広い地域に見られ、冠婚葬祭にまつわる様々な行事で重要な役割を果たすことが多い。ほとんどのレシピにはバターまたはギーが含まれるが、逆に一部では植物油を使う。ピスタチオ、胡桃、アーモンド、松の実などのナッツ類やレーズン、デーツなどのドライフルーツは必須ではない。

「逆に」がどう逆なのかよくわかりませんが、まあいい。それからこちらはどうやら老舗らしきヘルヴァ屋さんのウェブから:

「ハルヴァ」という語はアラビア語のhulviyyatまたはhalaviyyatに由来しています。現代アラビア語では、ハルヴァは「かわいらしい」「きれい」といった意味でも使われ、あらゆるデザートの総称でもあります。とはいうもののハルヴァといえば、思い浮かべるのは主な材料として小麦またはセモリナ粉に砂糖やはちみつ、モラセスを使い、そこにミルクやバター、クリーム、ピスタチオやシナモンなどを加えて作る、誰もが知っている家庭的なデザートでしょう。そしてこれ以外にもタヒニ(ごまのペースト)を使った別のタイプのハルヴァがあり、こちらは家庭で手作りするのは難しいため、既製品が買い求められています。

ハルヴァはトルコや多くの中東諸国に様々な種類があるデザートです。

カシュガリ・マフムッド著『Divan-u Lugati’t Turk(テュルク語辞典)』にはハルヴァについて、それがトルコ料理の最高峰のひとつであり、セルジューク朝下においても食されていたとあります。またイレーネ・メリンコフによれば、セルジューク朝13世紀にはハルヴァはすでに存在しており、メヴラーナの時代には『ハルヴァの儀式』があったと記しています。

東京の食品・雑貨屋さんやネットショップなどでも売られているゴマ入りのヘルヴァ、あれもおいしいですが、わたしは粉と脂(油ではなく脂)と砂糖や蜂蜜をねりねりと練ってある、やわらかくてほんのりとあたたかいヘルヴァが好きです。そしてイレーネ・メリンコフさんってどなたなのだろう?それはともかく、Sufi Cuisineで紹介されているレシピをいくつか、以下に。

……ここで紹介するヘルヴァの他にも、メヴラーナが言及していないセモリナのヘルヴァも含め、現代のコンヤでは様々なヘルヴァが作られています。赤ちゃんがこの世に誕生したとき、私たちは歓迎のヘルヴァを作りますし、誰かがこの世から去ったときにもお別れのヘルヴァを作ります。誕生から逝去にいたる間の契約、結婚、割礼といったあらゆる儀式の場面にヘルヴァを食べるのです。

ヘルヴァはどのような粉でも作ることができますが、それにしても「故郷の小麦粉」として知られるトルコ産の粉を使って作られる機会が本当に少なくなってしまいました。

アーモンドのヘルヴァ

–– このような魂の前にはあらゆる息と共に美が届けられよう、
このような魂、誰も見出さぬところに美を見出す魂に。
あらゆる息に美を込める魂に届けられよう、
見たこともないようなアーモンドのヘルヴァの皿が。
(『ディーワーン』より) ––

–– 謙譲の心を持つ者は尊敬を得るだろう、
砂糖を差し出す者がヘルヴァを得るように。
(『マスナヴィー』より) ––

私のアーモンドのヘルヴァのレシピには、当時は貴重な食材であった砂糖を甘味として使用しています。お好みで砂糖の代わりに200-400グラムの蜂蜜を使ってもよいでしょう。甘味は加減なさってください。

[材料]4人分、またはそれ以上
バター 250g または1カップ
皮をむいたアーモンド 大さじ2杯
強力粉 100g または1カップ
全粒粉 100g または1カップ
砂糖 450g または2カップ
水 800ml または3と1/3カップ
ローズ・ウォーター 大さじ1杯

[作り方]
底のまるい鍋にバターを溶かす。アーモンドを小麦粉に加え、木べらを使い弱火で約60分、アーモンドと粉が黄金色がかった茶色に色づくまでかき混ぜ続ける(ヘルヴァをおいしくするには最低でも60分は火を通すこと)。ソースパンを用意し、砂糖に水を加えて火にかけ砂糖をすっかり溶かす。沸騰して約2分ほど煮詰めたら火からおろし、色づいた粉の生地へ注ぐ。さらにかき混ぜ続け、鍋の中身が鍋肌にこびりつかなくなったらごく弱火にし、ふたをして15分ほどそのまま置いておく。さじを使って皿にヘルヴァを取り分け、さじの背でヘルヴァの表面をきれいにならしたらローズ・ウォーターをふりかけて温かいうちに頂く。

ペクメズを使った黒いヘルヴァ

–– あらゆる樹の前に御方はヘルヴァを置きたもう、
ペクメズも、脂もなしに創りたもうヘルヴァを。 ––
(『ディーワーン』より)

コンヤでは今でも食されているとてもおいしいヘルヴァです。

[材料]4人分
溶かした澄ましバター 125g または1/2カップ
全粒粉 100g または1カップ
ミルクまたは水 50ml または1/4カップ
ペクメズ 200g または1カップ

[作り方]
バターに粉を加え、金茶色になるまでごく弱火で約60分じっくりといためる。ミルクとペクメズを混ぜておく。粉をいためたものを火からおろし、ペクメズとミルクを混ぜたものを注ぐ。火に戻し、鍋肌にこびりつかなくなるまでかき混ぜ続ける。出来上がったら15分ほどおいてなじませる。さじを使って皿に取り分け、さじの背の側をつかって表面をきれいに撫でつけできあがり。

ペクメズのヘルヴァを作りたい。しかし「最低でも60分」か。蝉の叫び声を聞きながら台所で60分。がんばれるのだろうか。御本にはこれ以外にもはちみつのヘルヴァ、さとうのヘルヴァ、粉の配合に工夫のあるヘルヴァなどが紹介されています。

材料・作り方共に基本形はすべて同じですが、ひとつだけ、このようなヘルヴァも紹介されていました。

……二行詩にもうたわれた忘れがたいヘルヴァのひとつに、コンヤに今も伝わる「雪のヘルヴァ」があります。私はこれもレシピのひとつに加えておくのがふさわしいと考えました。メヴラーナは砂糖を使ったようですが、現在のコンヤでは雪のヘルヴァにはペクメズを使います。

雪のヘルヴァ

–– 雪の降る日はあのひとに口づけしよう、
砂糖を雪に添えたなら、心も軽くなるだろうから。 ––
(『ディーワーン』より)

コンヤでは、冬の夜に雪のヘルヴァを食べます。砂糖が非常に貴重だった時代に、とても思いきった楽しみ方であったことでしょう。

[材料]4人分
雪 ボウルに4杯
ぶどうのペクメズ 大さじ4杯(好みやペクメズの種類によって量は加減してください)

[作り方]
雪が降り始めてから2、3日ほど、雪氷がなじんで落ち着くまで待つ。降る雪が軽く、ふんわりとし始めたらどこか標高が高めの、踏み荒らされていないきれいな場所へ出かける。積もった上の部分は避け、内側の雪をさじでボウルに集める。上からペクメズをまわしかけ、あなたのお客様に差し上げてください。