Gombo zhebes

嵐がすごかったので、午後はひきこもって御本を読んだ。
“Gombo zhèbes.” Little dictionary of Creole proverbs, selected from six Creole dialects

『ゴンボ・ゼベ:クレオールの六方言から選んだことわざ小辞典』とでもいうのか、小泉八雲がラフカディオ・ハーンだった時の御本。

私は「クレオール」といったらまあフランス語なんだろ?と思い込んでいたが、どうやらフランス語ばっかりでもないんですね。→うぃきぺでぃあ

六方言というのは、つまり六地方ということでもあるようだ。ハイチ、トリニダード(・トバゴ)、モーリシャス、マルティニーク、ギアナ、そしてルイジアナ。

ルイジアナのだと何となあく「ああ、そういう言い回しを聞いたことがあるような気がする」くらいのに行き当たったりする。ハイチだとかギアナだとかのはちょっと分からない。まずもう登場する固有名詞からしてぜんぜんわからない。でも「善良な白人は死んだ。(その)悪業は残った(ハイチ)」なんかはどこかで聞いたような気もする。

「鍋はすべて炎にかけられた(モーリシャス)」。これは「料理用の鍋は全部働いている」=一人も逆らう者はいなくなった、という意味だそう。「今日は楽しさに酔っぱらい、明日は櫂に酔っぱらい(これもモーリシャス)」。これは櫂で漕がされたのか、それともぶたれたのかは分からない。どちらも、奴隷制度というのがどういうものだったかを暗喩している。

「隣人の髭に火がついているのを見たら、自分の髭を水で濡らせ(マルティニーク)」
対岸の火事じゃなく他山の石としなさい、くらいの意味だろうか。

「蠅を追っ払って肉まで追っ払う(ハイチ)」
なんか分かる。日本語でも、こういうのありそう。なんだけど、思い出せない。

「今日は足蹴にして追い払ったものを、明日になれば手で拾い上げることになる(マルティニーク)」
説明の必要もなし。

「火の中で失ったものなら、灰の中できっと見つかる(マルティニーク)」
善良な志というものは何があっても決して失われることはない、という意味だそうな。

「下腹は耳を持たない(トリニダード)」
トリニダードの皆さんはどうやら食いしんぼうのようだ。

「一度でもアラックを飲んだ者は、その味を決して忘れない(モーリシャス)」
これも日本語にありそうだ。

「卑怯者は長生きする(ルイジアナ)」
わるいやつほどよくねむる的な。

「太鼓が鳴る前にサンバだと知れる(ハイチ)」
「正直な山羊は太れない(マルティニーク)」
「ばかな山羊は丘の麓で草を食べる(ハイチ)」
「かぼちゃの心に何があるのか、包丁だけが知っている(マルティニーク)」
「かぼちゃからひょうたんは生まれない(ハイチ)」

「キャンキャン吠える犬は噛まない(ルイジアナ)」

「謀略は呪術よりも効き目が強い(ハイチ)」
おっ。いいぞ。何だこれ。何が始まるんだ。

「亀の父さんの歩みはのろいが、鹿の父さんが寝てる間に目的地にたどり着く(ルイジアナ)」
どっかで聞いたことあるような。

「誰が好きだか言ってごらん。君が誰だか当ててあげよう(ルイジアナ)」
これもどっかで聞いたことあるような。

「喪服を着るのは死人がすっかり棺桶に入ってからにしろ(ルイジアナ)」
これは(笑)、こういう言い回しはすごく好き。光景が目に浮かぶ。

「畑が遠いとオクラが駄目になる(マルティニーク)」
職住近接の利を説いているぞ。通勤時間は短い方が良いよね。

なんかキリがないので最後にひとつ気に入ったやつ。
「おしゃべりは何の薬にもならない(トリニダード)」

へるん先生の解説によると、「クレオールは言葉(word)については薬のように効き目があるものとしている」。でもおしゃべり(talk)は薬にはならないそうだ。難しいね。そうでもないか。

Nothing comes from dreamers but dreams
I say, sitting idle in our boat while everyone else is down the stream
Nothing comes from talkers but sound
We can talk all we want 2, but the world still goes around and round.

おしまい。

別のところに書いたのを、こちらに保存しました。

「夫婦本」

イスラム“夫婦本”のスゴイ中身…夫は妻を殴ってもいい
「幸せな結婚生活を送るために、夫は妻の耳を引っ張ったり、杖で殴らなくてはならない」こんな本がカナダの書店で売り切れ状態になっている、とトロント・サン紙が伝えた。「ア・ギフト・フォア・モスリム・カップル」と題された約160ページに及ぶ本は、高名なイスラム教の学者が書いた。

《妻に暴力をふるったり、脅したりすることは慎んだほうがいい》《妻がどんなにバカで怠け者であろうとも、夫は妻を優しさと愛で接しないといけない》と冒頭で断りを入れているが、それ以降は極めて過激だ。

《妻は夫の許可なしに外出してはならない。妻は夫の希望をかなえるために献身的に働き、決して怠けてはいけない。夫のために常に美しくしていなくてはならない》さらに《夫は妻を叱らなくてはならない。その際、手や杖で妻を殴ってもいい。妻から財布を取り上げ、耳をひっぱることも幸せな結婚生活を維持するために必要だ》。

イスラム社会が男性優位であることは、広く知られている。ごく最近、イスラム圏のパキスタンでは、親のいいつけに背いて恋愛に走ったなどという理由で「オナー・キリング」(名誉殺人)の犠牲になった女性が、昨年だけで1000人もいたという報道があったばかり。

だが、ここまで露骨に夫の暴力を肯定した本は珍しく、激怒した地元の有識者が発売禁止にしたが、イスラム系のオンライン書店ではなお売られているという。

元記事の「トロント・サン紙」はこのような見出しだった:Book tells Muslim men how to beat and control their wives

そして実際にその御本がarchives.orgにあったので、ついついざらざらと読んでしまった。
A Gift To Husband and Wife By Shaykh Ashraf Ali Thanvi (r.a)

うっはー、すげえなと思うところも多々あったけど、「激怒」とまでは至りませんでした。何しろ、この御本が書かれたのは19世紀後半~20世紀初頭の、やっと脱植民地化するかしないかの狭間の頃で、それを21世紀の物差しで計るのは(まあ、わざわざこのような大昔の御本をひっぱりだしてきてリバイスした人たちについては、何というかいかがなものかとは思わなくもないけれども)フェアではない気がする。

と、いうか、時代背景を考えたら、著者本人はむしろ「開明的」「近代的」な部類に属するひとだったのではないか。「家族間のいざこざを避けるためにも、結婚したら新居を持とう」であるとか、「両親が同居を求めても、妻が同意しない場合は妻を優先しよう」であるとか。「姑への献身は女性の義務ではない」とかとも、さらっと書いてあったりするし。

この著者と同時代の頃のムスリム知識人というと、「ヴェイルを取れ、教育を受けろ、自立しろ」的なことを御婦人に言う人たちも少なからずいたわけだけども、じゃあ具体的にどうやって?実行するのは非常に難しいことであるのはそれから百年後の現代を見ても分かる通りで、そんなこと、言うのは簡単でも実際には、ほとんど一握りくらいの限られたエリート層じゃないと不可能だったろう(このあたりの議論は、日本語でアクセスできるものであれば、例えばライラ・アハメド氏の著書などが詳しい)。

確かに記事にもある通り、「夫に献身しろ」とは書いてある。そこだけを切り取って見てしまえば、確かに「いかがなものか」ではあるのだけれど、「妻に献身しろ」はもっと沢山書いてある。夫婦が互いに献身し合うことそれ自体はごくふつうのことだよね。そして体罰にしても、それはもう実に様々な条件があって、その上で「やむないときはやむなし」的なことが書かれてある。これは何というかムスリム・クレリック話法というのか、「絶対に駄目だ」と書いたところで反撥があるのは目に見えているからこういう書き方になる。

もちろん、納得できない向きもあるだろう。ただまあこの著者が考える「女性の権利」=「配偶者によって衣食住その他を不足なく満たされること」なので、こういう書き方になる。

なんかずいぶんとかばい立てしてるように見えるかもしれないが(そしてわたしを実際に知るひとであれば、そのことに驚くかもしれないが)、だってもう「配偶者によって衣食住その他を不足なく満たされること」の「不足なく」の度合いがすごいので。だって例として極端なところを引用すると、「夫は妻の許可無しに性行為を終わらせてはいけない」んだぜ。どうよそれ。どうなのよ。

追記:最後尾2、3章はアンガー・コントロールであるとか、離婚に際しての作法なんかも書いてある。いいですね、離婚の手引きつきの結婚生活ガイドブック。

別のところに書いたのを、こちらに保存しました。