なんだか、興味深かったのでめも。
“Bahram Shahnazar: Notes on Rumi’s Iranian Origins”
ファッローフさんという歴史ものの物書き氏のブログ。ジャラールッディーン・ルーミー翁のルーツについて、「ルーミーのイラン人性について」と題して書いていらっしゃる。
ブログの本文中では「ペルシャ語とペルシャ文化に固く結び付いた人物」とルーミー翁を結論している。それについては、誰も否定しないんじゃないかな。でもそこで「イラン(あるいは現代イラン)」って飛躍されると、否定はしないまでもそれはちょっと待って、ってなるひとは少なくないんじゃないかな。
ルーミー翁はなに人なのか、というのはまともに考えると結構おもしろくもあり、骨の折れることでもある。そのあたり、皆さん賢く立ち回って断言しないようにしているように見える(この立ち回り加減を観察するのもおもしろい)。↑のブログでも少し引用されているけど、アンネマリー・シンメルさんというえらい学者さん、彼女もルーミー翁のルーツについては「非常に慎重に」発言を控えている。
なに人か、というのは何をもって決まるのかな?出生地で決まるのかな?それとも居住地で決まるのかな?それとも「人種」かな?使用している言語かな?
「人種」で言うなら、ルーミー翁のお父上の家系は初代カリフのアブー・バクルにまでさかのぼる(と、いうことになっている)ので、「アラブ人だ」と言おうと思えば言えてしまう。お父上、どこで生まれたのかについては確定的な資料は無いようだ。自伝によれば、若い頃は現代でいうところのタジキスタンで教師をやっていたということになっている。ルーミー翁もその地で生まれている。
「ペルシャ語を使っているのだから」という理由でルーミー翁はペルシャ人だ、と言うひとたちがいる。昔のアフガニスタンで生まれたのだからアフガニスタン人だ、と言うひとたちもいる。ただ、ルーミー翁が生まれた当時は、そのあたり一帯がペルシャ帝国の一部だったりもする。近頃では、このごろは、だからユネスコなどもそうだけれど、「ルーミー(ルームの人)」だけではなく出生地のバルフの名を加えて「バルヒー(バルフの人)」と記される機会も増えつつある。
↑のブログで、ファッローフさんは「トルコ文化庁の出版物には、ルーミーのペルシャ人的側面を矮小化するような記述があっておかしい」的なことを言っている。さすがに、「コンヤで過ごしてコンヤで死んだのだからトルコ人だ」、と言い出してしまうようなトルコのひとには、今のところ会ったことがない。コンヤでは、今でも(あの有名な)シェブィ・アルース、ルーミー翁の命日を記念する式典の他に、ルーミー翁がコンヤに到着した日をお祝いする行事もあったりする。それはおいて、でもルーミー翁はともかく、その後に出来たメヴレヴィー教団についてはオスマントルコ産だと思っているトルコのひとたちは少なくないだろう(「外国」の事物と思っているひとはそうそういないだろう、というくらいの程合いで)。
メヴレヴィー教団の創始者であるルーミー翁の息子さんであるスルタン・ヴェレド(アラブ式だと「スルタン・ワラド」と発音される)は、ペルシャ語はできても、トルコ語はほとんどできなかったそうだ。そのことを、自作(とされる)詩のなかで「だって出来ないものは出来ないんだもの」と嘆いていたりする。移民二世。ちょっとだけ、せつないものがある。
別のところに書いたのを、こちらに保存しました。