「マルコムXの手紙」

半世紀と1年前の今日はマルコムXが天に召された日でしたので、彼の「巡礼の手紙」を読んでみました。

The Most Remarkable Revelatory Letter Ever Written By Malcolm X

 


1964年4月26日 サウジアラビア、メッカにて

たった今、聖なる町メッカへの巡礼(ハッジ)を終えたところだ。ここは地上で最も神聖な町、非ムスリムには目にすることさえも完全に禁じられている。巡礼は全ムスリムの人生における最も重要なイベントだ。現在、アラビア半島の外からは226,000人を越えるムスリムがここに来ている。最多はトルコからで、約50000人が600台以上のバスを連ねており、これは「トルコは脱イスラム化している」という西洋人のプロパガンダを覆すものだ。

アメリカから実際にメッカ巡礼を果たした者は、知る限り他にはたったの2名である。そして両名共に西インド諸島出身のイスラム教改宗者だ。イライジャ・ムハンマド氏と彼の二人の息子、それに何人かの彼の信者がメッカを訪れたのは巡礼月以外のことであり、それは「オムラ」と呼ばれる小巡礼である。その「オムラ」でさえ、ムスリム世界においては恩恵とみなされている。これまでにメッカを訪れたことのあるアメリカ人は両手に数えられるかも疑わしく、アメリカ生まれのニグロとして初めてハッジを実行したのはこの私であるらしいことを確信している。自慢するために言っているのではない。ただこれがいかに素晴らしい成果であり祝福であるかを指摘し、またこの出来事それ自体がきみを知的に正しい立場へ導く光となり、またきみ自身の知性によってこの出来事が正しく位置づけられるようにと思ってのことだ。

最も神聖な町への巡礼は私にとり何ものにもかえ難い経験となった。数え切れないほどの祝福を私は受け取ったが、それは私が抱いていた最も無謀な夢想をもゆうに超えていた。

ジェッダに到着してほどなく、私はムハメット・ファイサル王子と面会した。皇太子によれば、理想とされるべき彼の父ファイサル皇太子が、私をアラビア半島の支配者の賓客として遇するよう裁定したとのこと。それ以降の出来事を説明しようと思えば書籍にして5、6冊を要するが、*****閣下のはからいにより私はジェッダ、メッカ、ミナ、いずれの場所においても*****ホテルに宿泊していた、それも私が自由に使用できる専用の車両に運転手、宗教的な案内役、それに複数の従者付きである。

これほどまでの栄誉に浴したことはかつてなかったし、またこれほどまでの栄誉と尊敬に浴することで私はより謙虚に、(このような処遇に)ふさわしからぬ者のように感じている。こんな恩恵がアメリカのニグロに与えられるなど、誰が信じるだろうか!!!(しかし)ムスリム世界においてはイスラムを受け入れ、白人または黒人であることをやめるとき、イスラムはすべての人間を人間として認めるのである。何故ならここアラビア半島においては神はひとつであると信じられており、それゆえ人間はひとつであるとも信じられており、あらゆる兄弟姉妹が人類というひとつの家族であると信じられているのだ。

私はここアラビア半島で目にしたのと同様の誠実なもてなしや、真の兄弟愛が実践されているのを目撃したことはかつて一度もなかった。その結果、この巡礼において私が目にしたもの、経験したことの数々が私に対し、多くの思考パターンを「再考」させ、今まで私が下してきた結論のいくつかを捨て去るよう強く促している。この「リアリティの適正化」を経ることは、私にとりさほど難しいものではなかった。何を信じるにせよ私の信念は堅固であるが、しかしそれとは別に、私はいつでも開かれた心を保つよう努めてきたし、真実へと向かう終わりなき知的探求においては、誰とでも手に手を取り合う柔軟性が絶対的に不可欠である。

ここには地球上のあらゆるところからやって来た、あらゆる肌の色のムスリムがいる。メッカ(ジェッダ、ミナ、ムスタリフ)に滞在し、ハッジの儀式について学んでいる間にも私は同じ皿から食べた。同じグラスから飲み、そして同じベッドやラグの上で寝た –– 王や支配者、あるいはその他の統治者と共に –– ******* ムスリム同胞たちと一緒に。彼らは白よりも白い肌、青よりも青い目、そして金よりも金色の髪をしていた。私は彼らの青い目を見たが、彼らが私を同じ(兄弟)と見なしているのが分かった。ひとつの神(アッラー)への彼らの信仰は、実際に彼らの意識から「白人」を取り除き、そのため彼らの、他の肌の色の人々に対する態度やふるまいにも自ずと変化がもたらされるのである。ワンネスへの信仰が、彼らをアメリカ白人とは大いに異なる人々としており、そのため彼らと付き合うのに彼らの肌の色を意識することはまったくなかった。ひとつの神に誠実であること、全ての人々を平等に受け入れることにより彼らもまた、その他の非白人とのイスラム教の兄弟愛の関係において平等に受け入れられているのである。

もしもアメリカ白人たちがイスラム教を受け入れられるものならば、もしも彼らが神(アッラー)の唯一性を受け入れられるものならば、その時こそ彼らもまた人類のワンネスに受け入れられ、常に他人を、彼らが言うところの「肌の色の違い」によって測ることからも自由になれるだろう。そして今も不治の癌のようにアメリカを蝕んでいるレイシズムについて、思考力を持つすべてのアメリカ人は、人種問題をすでに解決しているイスラム教に対してより考慮を払うべきだ。

アメリカのニグロたちが抱く「人種的憎悪」を非難することはできない。何故なら彼らのそれは単なる反応か、あるいは自衛本能によるものだからだ。アメリカ白人による(アメリカのニグロに対してなされる)意識的な人種差別の実践に対し、無意識の知性が抵抗するよう命じているのだ。しかし人種差別にかかるアメリカの狂気じみた強迫観念はこの国を自滅的な道へ引きずり込んでおり、底無しの地獄へ向かう絶壁のすぐ近くまで来ている。白人のうちカレッジ生や大学生といった若い世代が、彼ら自身の若さと囚われることのない知性を通じて「壁に書かれた文字」を目にし、イスラム教に精神的な救済を求め、旧世代にもそうするよう迫るだろうと私は信じる。

人種差別がもたらす回避不可能な大惨事 –– ヒットラーのナチス・ドイツが最も良い証明である –– を食い止めるための、これが白いアメリカに唯一残された道である。

こうしてメッカを訪れ、私自身の個人的・精神的な道において私の宗教(イスラム教)の深奥をより理解できるところまで歩みを進めたところでもう数日、われわれのアフリカの父祖の地へ旅を続けようと思う。アッラーが望むなら5月20日、ニューヨークに戻るまでの間にスーダン、ケニヤ、タンガニーカ、ザンジバル、ナイジェリア、ガーナ、アルジェリアを訪れるつもりだ。

この手紙はきみが好きなように使ってくれて構わない、

エル=ハッジ・マーリク・エル=シャッバーズ
(マルコムX)

 


※「壁に書かれた文字」 ダニエル書の5章を指しているものかと思われます。
※タンガニーカ 現在のタンザニアあたり。

「改宗者ならよーく知ってる、33のあれとかこれとか」

yusuf islam aka cat stevens
いいこともあれば、わるいこともあれば、気まず過ぎることもある。
彼らはそれを「旅」と呼ぶ ––

 

 

1. 「convert(改宗者)です」と自己紹介すると、ボーン・ムスリムがやって来て「convertじゃなくてrevert(復帰者)と言え」と訂正を入れてくる。

fb comment「改宗者なんだけど、家族が未だに喜んでくれてるの。わたしコーランに出てくるジーザス(pbuh)について勉強して、それからそれから」 「改宗じゃなくって復帰と言うべき。インシャアッラーいつかあなたの家族もイスラムに帰ってきますようにインシャアッラー」

what?「はい?」

 

 

2. 初対面なのに、改宗話を聞かせろと言う人たちがいる。

dont know u「あなたの名前も知らないんですが」

 

 

3. 一度も会ったことないのに、改宗後の家族の反応を知りたがる人たちがいる。

dont know me

 

 

4. なんで敢えてやたらとヘンな場所で礼拝したがるの……

dont judge me見せびらかしたくて改宗したんじゃないのよ。

 

 

5. 改宗の理由をエスニシティやら見た目やら家族背景やらからあれこれ妄想してこじつけたがる。

5-e

 

 

6. 赤の他人に「いつ結婚するの」と言われる。

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7. 誰かがウドゥしてるのを初めて実際に目にしたとき。

wudu first sight

 

 

8. こんがらがるマズハブの違い。

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9. どこの集まりに顔を出しても自分がおかしいんじゃないかって気がしてくる。

umaおれはUMAか。

 

 

10. なんかグループみたいの作ってかたまってる人たちにわれわれのシャイフに従えとかわれわれの解釈に従えとか言われる。

yeah RIGHT.

 

 

11. 同じ法学派じゃないと知った途端、こっちが侮辱したみたいに受け取る人たちの反応。

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12. 「ムスリムになってみてどうお?」って、それを聞いてどうしたいのか。

szTpgZg-compressorちょう最高、ほんと幸せ、うんうん、いい感じ、うんうん、気にしてくれてありがと –– で?!

 

 

13. 「ちゃんとしたイスラムを教えてあげるよ。」

yeah-I-cant-do-thisああそうさ、どうせおれは……どうせおれは……

 

 

14. 改宗者だからイスラムのことは【何も】知らないと思ってた、と驚かれる。

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15. 改宗者だろうがイスラムのことは【何でも】知ってないとだめだ、と叱られる。

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16. モスクとかハラカとかで紹介されるときの肩書きが「改宗者」。

tumblr_long91v7nv1qbgaqpちょっと待てコラ

 

 

17. 超絶ひとりぼっちのラマダン&イード。

17-nbc泣き出す半歩手前だったわよ

 

 

18. モスクで何かあったらしいんだけど、誰も教えてくれなかった。

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19. アラビア語学習にやたらと情熱を注ぎまくる。

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20. 結果、アラビア語学習をほとんどあきらめかけてる。

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21. 翻訳のコーランなら10種類以上持ってるんだぜ。

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22. 未だに自分がムスリムになったことを知らない友人たちとはとっくの昔に縁が切れている。

ezgif-60600189何もかもを捨てて来たんじゃ……

 

 

23. 御婦人マター:いったい何をどうすればチュートリアルでやってるみたいなスカーフの巻き方ができるのか。

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24. 一回だけ会ったことのある人からイードとか、パッケージツアーとか割引セールとかの長大なテキストメールががんがん送られてくる。

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25. モスクに通ってるうちに、色んな言語の良く聞くフレーズがかなり分かりはじめてくる。

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26. ベーコンってうまいんだろ?とか言ってくるやつ。

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27. アルコールに関する質問。っていうか質問系はもう全部やめにしよ?

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28. 「シャイフは誰なの?」「マルジャーは誰なの?」

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29. アラビア語が分からなくてもムスリムになれるということが分からないムスリム。

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30. 最初の数年は理解不能だったファジュルとかいうコンセプト。

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31. 初めてスフールを食べそこねたとき。

31-replygifきっと死んじゃうんだって思った

 

 

32. イスティンジャー。

32-giphy絶対無理

 

 

33. コミュニティのみんながイードの日を決めてるのを見てる。

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まあもうとにかく慣れたり、すり合わせたりしなきゃいけないことがいっぱいで、

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要するにアルハムドゥリッラー。

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サブル力がアップして、いちいち動揺しなくなりますように –– アーミーン!

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元のコラムはThe Muslim Vibeというサイトのこちらです:33 situations that converts to Islam know only too well

The Muslim Vibeは今年で3年めの、ムスリム周りの諸々を集めた読みもの系が中心のサイトです。最初は別のもっとdecent & delicateなのを日本語にする話だったのだが、なんとなくこっちを先にしてみました(別にこれ(↑)がdecent & delicateではない、と言っているのではない)。

キャット・スティーヴンス。何年か前に芸名をユースフ・イスラムからキャット・スティーヴンスに戻したんですよね確か。

キャット・スティーヴンス。
ああキャット・スティーヴンス、キャット・スティーヴンス。

「試訳:探求者の心得」

イブン・アラビー先生の小品「探求者の心得(仮)」を日本語に読んでみました。→ 試訳:探求者の心得

「探求者の心得」、Kitab Kunh ma la budda minhu lil-mulidの名で知られるこの小論は、1204年、探求者は「何を信じるべきか。またその始まりに、何よりも先にすべきことは何か」という質問に対する解答として1204年、モスルにて執筆された。この小論はトルコ語(Mahmud Mukhtar Bey, 1898)、スペイン語(M. Asin Palaciosによる部分訳, 1931)、英語(A. Jeffrey, 1962)といった複数の語に翻訳・刊行されている。

「あとがき」っぽいのがついてます。詩なんですけど。最高です。

追加しました:”Open Syllabus Explorer”を眺めて一言ふたこと

NYT紙(ウェブ記事)の日曜レビュー“What a Million Syllabuses Can Teach Us”に、「ザ・オープン・シラバス・プロジェクト」というのが紹介されていました。約2年の歳月をかけて、公開されている大学のシラバス情報を100万+集めたオープン・シラバスのデータベースだそうです。

で、それを元に構築されたシラバス検索エンジンのベータ版がウェブ上から閲覧できるようになっています:

Open Syllabus Explorer

現時点でのSyllabus Explorer(シラバス検索エンジン)の主な用途は、該当するテキストが過去10年間にどれくらいの頻度でアサインされているかの集計である。閲覧する者誰もが何かしらの意味を見出せるだろう。上位100冊を支配するのはトラディショナルな西洋古典群だ。2位はプラトン『国家』、3位は『共産党宣言』、5位は『フランケンシュタイン』。アリストテレス『倫理学』、ホッブズ『リヴァイアサン』、マキャベリ『君主論』、『オイディプス』そして『ハムレット』がそれに続く。

「何で『共産党宣言』なんかが上位にランクインしてるの?」と不思議に思ったそこのあなた。ご説明しましょう。『国家』同様にこのテキストは、歴史学・社会学・政治科学、といった具合に分野をまたいで頻繁に言及されているからなんですよ。

これ(シラバス検索エンジン)、大学ごととか国別(アメリカ、カナダ、イギリス、オーストラリアつまり英語圏)とか、フィールドとかでフィルタをかけたりして検索するのも楽しいです。とりあえず、オールジャンルの上位20冊50冊の邦訳を探してみました。以下にずらずらとリンクしてみます。


(1)『英語文章ルールブック』 ウィリアム・ストランク この御本の言いつけ通りに書けば文章はとってもハンサムになります。最初の版は1920年らしいですが、御本そのものはそれ以前から存在しており(著者のストランク先生がお手作りして受講学生たちに教科書として指定・配布していたそうです)、当時のキャンパス内でそれは “The Little Book”と、「ちっさな」の部分にアクセントをおいて呼びならわされていたのだそうな。

邦訳はすごい値段がつけられている。マーケットプレイスはこわいところ。何らかの必要があって英文メールを書かなきゃいけないとか、そういう生活を送っているむきには原書の方をおすすめ。何のことはない、本文85ページほどのほんとうに「ちっさな」本です。それでいて例文とか、おかしやすい語の選び間違いとかその場合の正しい使用法だとかをシンプルていねいに教えてくれます。


(2)『国家』 プラトン そういや石膏デッサンでプラトンとかソクラテスとか、ないなあ。あったらおもしろそうなのに。


(3)『共産党宣言』 カール・マルクス 「興味ないしー」とか毒づきつついろいろ探してたら、なんか解説もいっぱいついてて親切そうなの見つけました。本文だけなら青空文庫に堺利彦・幸徳秋水『共産黨宣言』あり〼た


(4)『生物学』 ニール・キャンベル


(5) 『フランケンシュタイン』 メアリー・シェリー 生物学の次点にこれ。


(6)『倫理学』 アリストテレス 『倫理学』ってニコマコスさんのかと思ったらなんか他にもいろいろあるんですね。


(7) 『リヴァイアサン』 ホッブズ 自分がかろうじてめくったことがあるのは中公クラシックスのやつなんですが、岩波のをひっぱってきました。表紙&レビューにみなぎる「万人の万人に対する闘争」感。


(8) 『君主論』 マキアヴェリ


(9) 『オイディプス』 ソフォクレス


(10) 『ハムレット』 シェイクスピア

(11) 『オデュッセイアー』 ホメーロス 「画像はありません」画像を作ってほしい>アマゾン。


(12) 『オリエンタリズム』 E. サイード このSyllabus Explorer上位テキスト一覧、誰に見せたいってサイード先生に見せたいですよ。

(13) 『英語論文の書き方』 トゥラビアン


(14) 『イーリアス』 ホメーロス


(15) 『闇の奥』 J. コンラッド


(16) 『カンタベリ物語』 チョーサー 著者名に山脇順三郎って書きそうになりました。


(17) 『アンティゴネー』 ソフォクレス それを言ったらギリシャものの著者はもうぜんぶ呉茂一。

(18) “Letter From the Birmingham Jail” マーティン・ルーサー・キング・ジュニア 初出は「アトランティック」紙、”Negro is Your Brother”と題されたキング牧師から南部の白人宗教指導者8名にあてられた公開書状で、公民権運動における古典的文書のひとつに数えられている由緒正しいテキストなのですが、日本語訳は見つけられませんでした。わたしの探し方がわるいだけでどこかにあるのかも知れないけど、ないのだとしたらちょっと……かなしい。<追記>わたしの探し方がわるいだけでした。ありました。

黒人はなぜ待てないか これの第五章がそれでした。


(19) 『自由論』 J.S.ミル 著者名に山岡洋一って書きそうになりました。


(20) 『科学革命の構造』 トーマス・クーン 著者名に中山茂って書きそうになりました。


(21) 『失楽園』 ミルトン 血沸き肉躍る冒険活劇譚の傑作なんですよこれ。


(22) 『功利主義論』 ミル 「世界の名著」シリーズ大好き。


(23) 『文明の衝突』 ハンチントン

(24) 『崩れゆく絆』 チヌア・アチェベ 新訳もありました。


(25) 『ソクラテスの弁明』 プラトン だんだん、「こうやって大昔からうだうだだべってばっかりいたのか地中海の連中は」っていうきぶんになってきた。


(26) 『権力論』 フーコー すみません、“Power”とだけ言われてもどれのことなんだかよくわかりません。だいたい権力のはなししてない時がない感じなので、いっそ全部読んどけばいいんじゃないでしょうか。え。いえ。いいです。わたしはいいです。


(27) 『種の起原』 ダーウィン そして図版入りで親切な簡略版。


(28) 『告白』 アウグスティヌス 「ワルだったおれが更正する話」がうけるのって何なの。


(29) 『政治学』 アリストテレス


(30) 『研究論文執筆マニュアル』 トゥラビアン

20冊まででやめておこうと思ったのに、なんかいろいろな意味で楽しくなってしまって30冊並べてしまいました。

しかしこれ、こうしてながめてみると圧倒的にメラニン色素が足りてなくないか。オスカーかよ。アカデミーだけに(注:わたしの中のサイード先生が言わせていることです。いえ、キング牧師ではないです)。

あるいはここで唐突に「西洋古典とか言ってるけどギリシャ人は西洋人なのかよ」問題を提起してみるという手もあるかもしれないが、それもそれであれなので、がんばってこのまま上位200冊くらいまでこのリストに足してってみようかと思います。

で、以下、ひとまず50冊まで足しました。


(31)『森の生活』 ソロー


(32)『アメリカにおけるデモクラシーについて』 トクヴィル


(33)『C言語プログラミング』 ダイテル


(34)『MLA英語論文の手引』 ジバルディ


(35)『A Pocket Style Manual』 ダイアナ・ハッカー


(36)『グレート・ギャツビー』 フィッツジェラルド


(37)『国富論』 アダム・スミス


(38)『対話篇』 プラトン


(39)『ニコマコス倫理学』 アリストテレス


(40)『性の歴史』 フーコー


(41)『自伝』 ベンジャミン・フランクリン


(42)『詩学』 アリストテレス (29)『政治学』も入っててお得。


(43)『Beloved』 トニ・モリスン


(44)『資本論』 マルクス 「全9冊」ぅ?!


(45)『テンペスト』 シェイクスピア


(46)『Methods in Behavioural Research』 ポール・コズビー 過去15年、もっとも読まれている心理学・行動科学分野のリサーチ入門書。だそうです。


(47)『ハックルベリー・フィン』 トウェイン 花子さんは『赤毛のアン』だけじゃないんですね。


(48)『社会契約論』 ルソー


(49)『The Bedford Handbook』 ダイアナ・ハッカー


(50)『黄色い壁紙』 シャーロット・ギルマン

さわりのところ(2)


Sufism: A Beginner’s Guide (Beginner’s Guides)
チティック先生の『スーフィズム:ビギナーズ・ガイド』。の、以下は4章のさわり(これもまた、ほんのさわり)のとこ。さわりのところ(1)はこっちからどうぞ。


第4章 セルフ・ヘルプ
スーフィー導師たちはコスモスと魂の整合性ある描写を差し出し、人々を神に連れ戻す軌道を説く。人間の置かれた状況についての彼らの見方は、ハディースによって要約できよう –– 「この世界は呪われている。その中にあるものも呪われている、神の想起を除いては」。世界もその中にあるものも、神的な根源から切り離されている。太陽が沈んでしまったがために歪んで暗く、混乱している。しかしこの同じ世界、同じものが神のしるしであり、昇る太陽の輝く光線であるともみなされるのである。西としての世界は呪われているが東としての世界は神の想起という歓喜の歌であり、もの見る人々をしてあらゆるものの幸福の賛美にさし招く。

自分や、あらゆるものの中に神を認識する方法を学ぶには、絶えず神を意識する方法を学ばねばならない。他の人々なら真夜中に覆われているととらえるだろう光景の中に、昇る太陽の輝ける光を見出さねばならない。イスラムとスーフィズムにおけるあらゆる実践が、あるひとつのゴールに集中している –– すなわち、人々が自らの目を開けてものを見るということである。数々のコーランの章句と預言者に帰された言葉が、豊富なイメージと表現をもってこのゴールにつて説いている。そのうち最も簡潔で、かつスーフィー導師たちがしばしば言及しているのが、神への道はtazkiyat an-nafsである、というものである。通常、このフレーズは「魂の浄化」と訳されている。

このフレーズはコーランの章句に由来する。若干おこがましくはあるが、以下の通り訳出してみよう:「魂と、それを形づくった御方において。それの堕落と、それの神への畏怖とを示唆した御方において。それを浄める者には成功があり、それを葬り去る者には失敗がある(91章7-10節)」。この章句によれば「成功」をおさめるのは、自らの魂を浄める人々のみである。コーランの文脈はこの成功が来世に関するものであり、現世の成功とは無関係であることをはっきりと示している。魂を浄めることができず、かわりに自らの魂を「葬り去る」 –– まるで自らの魂を土の下に隠してしまったかのような –– 人々に成功はない。むしろあちら側の最後の故郷へ移るとき、自分たちはこちら側で成功していると考えるか否かに関わらず、彼らは不幸を味わうことになる。

コーランの章句の翻訳がすべてそうであるのと同じように、この翻訳にも問題がありあくまでも仮訳に過ぎない。まず第一に、tazkiyaを「浄める」と訳してしまうのは実に紛らわしい。どれを参照しようがあらゆる辞書にはtazkiyaには2つの意味があることが示されている。どちらの意味の方がより基準的かについては辞書の編纂者たちは意見の一致をみていないにしても、である。この動詞にはひとつには浄化であったり、洗い清めるといった意味があり、そしてもうひとつには拡大、増加といった意味がある。それゆえtazkiyat an-nafsには、コーランの解説者たちも認める通り、nafsを「浄化する」ともnafsを「拡大する」とも理解できるのである。解説者たちの大部分が、明らかに神学上の理由から一番めの意味を強調する。結論からすればムスリムたちの主要な義務は自らを神に隷従させることにあり、それは神の意にそぐわないことを避けない限り成立し得ない。これを「浄化」と呼ぶことはできるだろう。しかし同時に魂もまた発達し、神の援助の下に大きく成長する必要があることも明白である。この成長をもたらす働きもまた、tazkiyaと呼べるのである。このように2つの事柄が生起する必要がある。そしてそのどちらも –– 浄化と増加 –– が tazkiyaの一語によって意味されているのである。あるいは浄化について、それは魂の成長と拡大と同時に起こるものであるととらえることもできよう。かくしてひとつの語が持つふたつの意味が合致するようになる。

これらふたつの意味の相補性を、tazkiyaという単語の使われ方の中にいくらか見出すことができる。辞書には種を植える、家畜を育てるといった場合にこの語を用いることだできると示されている。どちらも浄化や増加という意味ではないが、しかし2つの意味が混合した何かではある。大地に植えられるときの種はあらゆる異物から浄められ、土、水、日光といった神の恩恵を浴びる。これは種が強まり成長するための手段を用意するということである。これは種を「浄化」するのでもなければ「増加」しているのでもない。むしろ種が育ち、みのり、その可能性を引き出せる状況に置いてやるということである。このようなわけでtazkiyat an-nafsには、「魂の浄化」ばかりではなく、育ち、成長していけるように魂を神の恩寵へと開け放つことをうながすという意味もあるのである。訳すならば「魂を耕す」とした方が、より良いといえるかもしれない。

人間のセルフ
動詞tazkiyaは、コーランにおいて12回使用されている。通常、主語は神にあり人間は目的/対象である。これらの章句の大部分は、ちょうど引用した章句が示すように、プロセスにおいて重要な役割を果たすのが人々であるにせよ、その要点は人々を浄化し祝福するのは神の恩恵と導きであるということである。これとは対照的にnafsという語は、コーランにおいては約300回使用されている。多くの章句において、この語はシンプルな再帰代名詞であり、そのため人間にも神にも、そして他のものにも使用することができる。その再帰的機能からすれば明らかに「自己(セルフ)」と訳すのが最もすぐれている。再帰代名詞としてではない語の使用もコーランには見受けられるが、しかしこの用語は「魂」とするよりは「自己(セルフ)」とした方がまだ良訳であるといえる。例として、コーランにはイエスが以下の言葉を用いて神に呼びかけたとする章句がある:「おお、神よ。あなたはわたし自身の中にあることを知っている。だがわたしはあなた自身の中にあることを知らない(5章116節)」。加えてコーランではこの語を、どのような名詞に再帰させることもなく、単に一般的な人間自身を指すのに使用してもいる。こうした文脈において翻訳者たちは「自己」とするかわりに大抵の場合「魂」と訳している。つまりコーラン中のnafsという語は常に「自己」でありながら、しばしば「魂」と翻訳されている。

「魂」と「自己」に関する問題のひとつに、人々がこれらを、特に前者を具象化する傾向にあるというのが挙げられる。言い換えるならばまるで魂が、肉体がそう思われているのと同様の、有形で具体的な物質量を伴った「モノ」であるかのように語りがちだということである。あるいは一例として、人々はしばしば人間には魂があるか否か、あるいは動物には魂があるか否かについて議論することがある。こうした議論において魂は決まって有形かつ具体的な物質量として想定される。これは彼らが言うところの「科学的な」条件において魂を説明しようという際には特に顕著となる。科学的思考とは、そもそも近視眼的なものである。イスラムのテキストで使用されているnafsのような用語には対処のしようがない。少なくともアラビア語ならびにコーランの語法はあらゆるものがnafsを持つのを当然のこととして要請している以上、アラビア語で魂の存在について議論するのは、特にnafsという語を用いてしまうと馬鹿げたものとして聞こえるだろう。

コーランの用語ではあらゆるものがnafsを持つため、人類がnafsを持つか否かは問題とはならなり。問題となるのはこれである:人間のnafsとは何か。またそれは神のnafsとどう区別されるのか。あるいは動物のnafsや岩のnafsとどのように違うのか?神がnafstazkiyaする必要がないのは何故なのか?神がどの天使にも動物にもnafstazkiyaを実践するよう命じていないのは何故なのか?ここでペルシャのことわざが正しいことを言っている。「冷たい鉄を打つのは」、ペルシャ人たちは言う、「ロバの耳にヤースィーンを聞かせるようなものだ」。コーランの第36章にあたるヤースィーンは、常に特別な力と天恵を秘めているといわれてきた。ロバのnafsは人間のnafsとは明らかに異なる。もし人間の耳にコーランを聞かせてやったなら何かしらの役に立つかもしれない。しかしロバはずっとロバのままだろう。

では実際に人間のnafsについて、明確にはいったい何が異なるというのだろうか?この問いに対するイスラム的な基本解は、この質問に対する精密かつ正確な回答はそれを受け取る私たちの能力の範囲内には存在しない、と言うよりも人間のnafsに特有の本質とは、その深い根本のところでは特有の本質を持たないということである。これについては、いくらか説明が必要である。

「鏡の中の自分を見る」と言うとき、私たちは肉体的なフォルムの反射を指す意味で言っている。しかし私たちが鏡の中に私たち自身を認める、というまさにその事実が、単なる肉体的なフォルムよりも、多くは自己に向けられていることを示している。アラビア語の単語nafsと英語のselfは物理的な肉体と自身という意識を含めてその他あらゆる「私たち」全体を指している。しかし、この他に何が含まれるだろうか。人間が自分で考えている以上の何かである、何故なら「無意識」を持っているからだとする考え方は今や当然となっている。しかし私たちは、自己とそれ以外を区別する正しい境界線はどこに引かれているのだろうか?自己について語ることの真の問題とは、私たちが私たちについて何も知らず、大ざっぱな間に合わせの感覚以上には何ひとつ知り得ないという点にある。自分たちが何ものであるか知っていると思うなら、それは間違っている。

ほとんどの人は自分自身については考えさえもしていない。そしてこれがコーランがその重要な用語のひとつであるghafla、すなわち不注意という語によって指摘しているというのはほぼ明白である。自分自身について考えを巡らせた上で、自分が何者であるかという問題を解決したと言う人があれば、その人は混乱しているか嘘を言っているかのどちらかである。著名な小説家ウォーカー・パーシーがその著書“Lost in the Cosmos: The Last Self-Help Book”で取り上げているのもこの点である。色々な意味において、この書は街角の書店の棚に必ず置いてあるあらゆるセルフ・ヘルプ系書籍のパロディである(が、パーシーは自著がそうしたたぐいの書籍と勘違いされるのを草葉の陰で喜んでいるに違いない)。

(中略)

預言者の知識
人間が自分たち自身を知ることができない。この点については、ムスリムたちにとってより納得がいく証明のひとつに、神が預言者たちを遣わしたという事実がある。もし人間が自分たち自身を知ることができるなら、何が自分たちにとり良いことなのか、また悪いことなのかを自分たちだけで見出せたはずである。しかし実際のところ人間たちは、身体ひとつに対してさえ何が良く何が悪いのかよく分かってはいないのである。ましてや自分たちの全体像については言うまでもない。私は何も一般大衆のみに限って述べているのではなく、これは高度な専門家たちすべてにあてはまる。たとえば私たちにとり何が良く何が悪いのか、医師たちの意見は相当に高い頻度でころころと変わる。

預言者たちの目的は人間に対し、自分というセルフ全体にとり何が良く何が悪いのかを伝えることにある。たとえ始まりがあるにせよ、セルフには終わりはない。預言的な知識はセルフをその永遠性において取り扱う。この観点からは身体的な死は、それが重要な境界線を示すものではあるにせよ、むしろ取るに足らない。死後の人々には、もはや神の導きを選び取るか拒むかの自由はない。ただ神が望むがままに、神に仕えるのみである。何故ならこれ以上無知を隠れ蓑に、セルフを「埋める」がままにしておくことが出来なくなるから、ということになっている。

預言者たちが人間にもたらした導きは、人間が何であるかについてはさほど語ってはおらず、人間が何でないかについて語るものである。人間という存在は限定的かつ固定的な、完結したアイデンティティを持たないし、また人間は絶対にそうした存在ではあり得ない。もしも人間に最終的な限界に達することが可能であるなら、それは神と寸分違わない(それは不可能である)か、あるいは現実の経験に終止符を打つということにおいてである(これも不可能である)。はっきりと述べれば刹那の生を生きると同時に、変化のプロセスを永遠に生きるのが人間なのである。人間は自分たちだけでは今日という日のその先を見通すことはできない。ましてや死後のこととなれば尚更である。預言的な知識はセルフにとっての善悪を教える。このセルフには終わりも、特定のアイデンティティもない。


ところでウォーカー・パーシーの”Lost in the Cosmos: The Last Self-Help Book”、どなたか訳していただけませんか。

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