wordery.com

ロンドン住まいの知人から、wordery.com というオンライン本屋さんの存在を教わりました。

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「世界どこでも送料無料」を謳っています。そして御本のお値段も、某所と比べて若干お安め。どういう仕組みでそれが可能なのかはよく分からないまま、ついふらふらと一冊、注文してしまいました。注文したのはこれです:

Shamanism and Islam
Shamanism and Islam: Sufism, Healing Rituals and Spirits in the Muslim World

著者のおひとりティエリー・ザルコンヌ氏は一冊、日本語になっている御本があります。

「知の再発見」双書152 スーフィー イスラームの神秘主義者たち
『スーフィー イスラームの神秘主義者たち』

……いや、もう一冊あった。

「知の再発見」双書162 シャーマニズム
『シャーマニズム』

スーフィー、シャーマニズムときてシャーマニズム&スーフィー、いや違ったシャーマニズム&イスラムかあ。なんだか順当っていう感じで良いですね。

で、そのShamanism and Islamをwordery.comで注文してみたのですが、注文というか正しくは予約注文なのですが、ペーパーバックの発売予定日が10/30で、注文確定後に「10/30の発売から6〜10日以内にお届けします」という表示が出ました。日本もフリーシッピングの対象です。ちなみに同じ御本を某所で検索したところ、今日現在でお届けは12月ごろ、という表示が出てます。お値段もちがう。

気になって、サイトをあちこち閲覧したんですね。FAQとかABOUT USとか。そしたら、なんかいろいろとちょっと良い感じなんです。例えばFAQ:

– 電子書籍は扱ってるの?
いいえ。リアルライフの、ちゃとした、紙でできた本を手にするあの感覚にまさるものはない、と私たちは考えていますので。

つよい!

– イギリスにちゃんと税金は納めてるの?
はい。私たちの拠点はイギリスにあります。そして私たちのビジネスはすべてイギリスの納税対象になっています。

つよいつよい。ちょうつよい。

– どうして1000万冊以上も品揃えできるの?
若干、自分たちでも在庫を持ってます。あとは世界じゅうの出版社や販売業者とのネットワーク。そのおかげで、すべての人の好みやニーズにかなう御本を提供できるというわけ。

どんなネットワークなんだか、気になってしかたがない。

ABOUT USにある口上によると、「40年以上も書籍販売にたずさわり、互いに読書にかける情熱を分かち合ってきた友人どうし5人で集まって始めた」んだそうです。そして全員が、ネットでの書籍販売には「本を買うことの喜び」はなく、そこにはもはや魂がないと考え、この状況を打開するためには「ぜひともオルタナティブが必要」だとして立ち上げた、との由。言うねー、大英帝国の末裔。

ここのところ、自宅の本棚から「これはもういいかな」と思う御本を二冊、三冊と抜いてはジャーミイに持ってゆく、ということをしています。寺男氏(仮名)が夏頃に言うたのです、「本というのはみんなで読まなきゃ意味がない」。わたしは電子書籍は読みませんのですが、あれは貸し借りとか、できるものなのでしょうか。読み終わったから誰かにあげよう、というようなことができるものなのでしょうか?だとしたら、ここから後は何の意味もないたわごとになりますが、紙の御本の愛すべきところのひとつに、この「みんなで読む」ことができる、というのがまちがいなく数えられるでしょう(わたしは変態なので、「何よりにおいがたまらん」とかそういうことを言い出したりもするのですが)。

で、まあ何冊づつかを手放すうちに本棚周辺も心なしかすっきりしはじめたところでworderyを知ったのも何かのお導きであろうと考えることにして、以降は洋書のたぐいはworderyでお買い物することにしました。

また本棚からはみ出しはじめたら、ジャーミイに持っていきゃあいいわけだし。うふふ。

ピシュマニエ

先日、トルコの首都アンカラに住まう姉妹が里帰りの際に「買ってきましたけど食べますか?」と、おみやげにピシュマニエをくれました。ピシュマニエ!

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箱を開けると中袋があって、そのなかみがこのような感じ。

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これがピシュマニエ。正体は飴です。細くほそおく引き伸ばされて、おふとんの綿のようになった飴が、おおづかみな立方体にまとめられている(球体の場合もあるし、刺繍糸のように束ねられた形の場合もある)。これをほぐして、つまんで食べる。

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わたしのピシュマニエ愛が強過ぎるせいで、どれもこれもピシュマニエに接近し過ぎで「何ですかこれは」みたいな写真ばっかりがカメラロールに残っている中で、比較的ましなのがこれであった。ほぐすと、ちょっと驚くくらい「かさ」が増します。ふわふわしていて、口に入れるとしゃりしゃりして、そしてすぐにとけて消えて、香ばしい風味が残ります。箱にもcotton candyとあるとおり、見た目はわたあめっぽいですが、溶けてゆくときの存在感なり重量感なりというのは、cottonというよりもwoolといった方があたっている。

トルコのお菓子というと、カタカナで検索するとバクラヴァ、ロクムあたりがヒットします(ここでいう「お菓子」は、アイスクリームとか、ライス・プディングとかコンポートとか、お皿に取り分けるデザート的なものとは別ものとします)。あとはハルヴァ/ヘルヴァあたりか。バクラヴァおいしいですよね。バクラヴァというのはトルコの、あるいは中東の、といった枠を超越して世界大会を戦えるレベルの完成度のある選手。ハルヴァは地元密着型というか、それぞれの地域ごとにハルヴァに相当する甘味がたぶん存在するのではないかという意味での普遍性を有するお菓子。ロクムは何だろう。あいつは間口も広く敷居も低いが、そのくせ鴨居は「あれっ」と驚くほど高く、天井に至ってはもはやかすんで見えない、といった感がある。

ではピシュマニエは、というとどうなのだろう。お菓子界的にどのあたりの位置づけなのだろう。ちょっと良く分からない。わたしは大好きなのです。しかしこれを買ってきてくれた姉妹でさえ、「私は買ったことなかったんですけど。そんなにおいしいですか?」と言うくらいです。それほど、知られているお菓子ではないということだろうか。


Sherbet & Spice: The Complete Story of Turkish Sweets and Desserts
こういうときはすぐに書かれた字をあてにして生きてきました。

内容紹介:飴細工で作られた百頭のライオン、千枚重ねの生地を焼き上げた車輪大のバクラヴァ、死者への思いが込められたヘルヴァ、ドレスデン製の磁器の壺を満たすバラのジャム、スルタン献上用のすみれ入りシェルベット、砂糖中毒になってしまった王宮のオウムたち……トルコの多様なスウィーツやプディングは単なる味覚にとどまらない。幸福と幸運、友愛の象徴としてのそれらにまつわる物語の数々もまた、菓子そのものと同様の魅力に満ちている。云々。

第1章の「Seker(砂糖)」から始まって、飴細工やジャムやシェルベト、ヘルヴァ、ロクム、バクラヴァ、それにドンドゥルマまで全28章、現在「トルコの菓子」と呼ばれているものそれぞれについて、その呼び名の由来だとか、なりたちだとか歴史だとか、それからちょっとしたレシピだとかを交えて紹介している御本。この御本に、第17章「Keten Helva (Pismaniye)」と章が立てられていました。ちょっと引用してみますね:

すべてのトルコ菓子の中でも、Keten Helvaは、決して一筋縄とはいかないその作り方、風変わりなテクスチュア、興味深い歴史という点において最も魅惑的。何よりもまず、これほど沢山の名称をもって呼ばれるトルコ菓子は他にない –– pismaniye, pesmek, pesmani, tel helvasi, telteli, cekme helvasi, depme helvasi, saray helvasi, kuluk helvasi, met helvasi 等々。pismaniye, pesmek, pesmani といった呼び名は、これがペルシャ由来の菓子であることを思わせる。ペルシャ語で pashm とは羊毛という意味。その繊細な糸状の風合いを指してのことと考えられる。その姿かたちから、トルコ語ではketen helva(麻のヘルヴァ)と呼ばれることもあり、またギリシャ語ではmolia tis grias(「老婦人の髪」)とも、また中国では「龍のひげ」と呼ばれることもある。この菓子がどのようにして中国に渡ったのかは解明されていないが、おそらくモンゴル支配下の時代に、シルクロードを通じて知られるようになったものと思われる。

ああそうか!ピシュマニエは食べられるパシュミナなのか。この御本をめくるまでは名前の由来にはまったく注意を払いもせずにもふもふとむさぼるばかりでありました。しかし「これはwoolだ!」というのはあたっていた。以下、御本ではketen helvaとありますが、便宜上ピシュマニエと置き換えて続けて引用してみる:

ピシュマニエは三つの段階を踏んで作られる。最初に、小麦粉と溶かしバターを約1時間、火にかけてかき混ぜる。次に、砂糖のシロップをハード・クラック(冷水に入れるとポキンと折れるあめになる状態)に煮詰め、白くサテン状になるまで飴引きし、直径20センチほどの輪にする。さて、高い技術力を求められるのはここからである。良く飴引きをした砂糖の輪を円形のトレイに置いて、ローストした小麦粉をふんわりとふりかける。三、四人でトレイを囲み、両手で砂糖の輪を掴む。握っては、反時計回りに回す。全員がいっせいに揃って、同じリズムで作業しないと、細いところ、太いところのムラができてしまう。一カ所でもちぎれたりしたら、全てが台無しになってしまう。

引っ張っては折りたたみ、引っ張っては折りたたみをくり返すうちに砂糖の輪は大きくなってゆく。必要に応じて小麦粉を足す。だんだん、飴と小麦粉がなじんで混ざってゆく。(略)一回、折りたたまれるたびに飴の輪のひもが二倍になる。最低でも十回は折りたたむこと。その場合、飴の輪のひもは一,〇二四本になる(1, 2, 4, 8, 16, 32, 64, 128, 256, 512, 1024)。アダパザル地方では、自家製keten helvaといえば十五または十六回折りたたむことになっている(合計で32,768本または65,536本の飴の輪が出来あがる勘定である)。十九世紀のバイバルト地方では伝統的に四十回折りたたむが、この場合1.1兆(正確には、1,099,511,627,776)本という驚異的な本数の飴のひもができあがることになる。非常に繊細な、綿毛のような仕上がりである。飴のひもが細ければ細いほど上等とされる。

ちなみに「シヴァスでは十五回から二十回」、「ブルドゥルでは四十回」、「スフラルの農村部では最低でも三十回」はたたむのだそう。Sufi Cuisineの著者Nevin Halici女史によると、コンヤでは「ふつうなら四十五回」折りたたむことになっているそうです。四十五回。三十二、三兆本。それはもうふわっっっふわですね。

この「折りたたむ」というのの、作業の様子を見せてくれる良い動画がありました:

この「折りたたむ」工程を、実践的なレベルの詳細さで説明したピシュマニエのレシピはごくわずかしか存在しない。それと言うのも、ある料理研究者が著している通りで、(keten helvaを作るのに)「経験にまさるものはなく、この菓子を作っているところを実際に見学するなり、作れる者から習うこと無しには、書かれたレシピを読んだだけで再現するのはほとんど不可能」だからである。

最も古いピシュマニエのレシピは、十五世紀前半にさかのぼる。トルコ人によるこのレシピでは、バターと砂糖ではなく、澄ました脂尾羊の尾脂と蜂蜜が使われている。蜂蜜を飴状にして引き伸ばしたものに、焦がした小麦粉と蜂蜜を混ぜ合わせたものをまぶして仕上げる。

出ました脂尾羊。本当に、どの皿にも入っていないことがないという感じだ。

……ちょっとだけ引用するつもりだったのが、

ピシュマニエは十六世紀初頭のオスマン宮廷でも供されていた。例えば一五二二年のロードス島遠征の勝利を祝う式典や、征服王と呼ばれたスレイマン大帝の息子の割礼祝いの席など。

とか、「ピシュマニエ専門の菓子職人ギルドがあった」とか「ピシュマニエの出来映えで調理師の腕が試されることもあった」とか、「TVのような娯楽のなかった時代、ピシュマニエ作りが家族のエンターテインメントのひとつでもあった」とかという具合に、この御本全体の中ではピシュマニエの章は比較的短めな方であるというのに、おもしろいお話がたくさん紹介されていてきりがなくなる。

さて何となく分かったことは、これは「作るのが難しいにも関わらず、あくまでも自宅で作るたぐいのお菓子」に分類されている、ということ。今では市販品も多く出回ってはいるけれど、ピシュマニエというのは、皆で集まってわいわいしながら作って、出来たてをその場で分け合って食べるところまでをぜんぶ含めてピシュマニエ、ということなのだと思います。

(箱入りのものしか食べたことはありませんが、)ピシュマニエはおいしいです。おいしいですが、ピシュマニエには弱点というのがあって、それは湿気や温度です。置いておくとすぐに湿気を含んでべたべたになってしまう。いい具合に空気を含んでふんわりふっくらとしたおいしいピシュマニエをもふもふはみはみしたいと思うなら、箱入りで売られているピシュマニエを買ってくるのではなく、頑丈で清潔で手の平の皮が丈夫で、リズム感とチームワーク精神を備えたピシュマニエ職人を最低でも三人は集めて身辺にはべらせておく必要がある。と、いうことなのだろうと思います。いや、わたしは箱入りの市販品でもじゅうぶんおいしいと思いますけれども……、今になって何となく姉妹の「買ったことがない」というのの深さに気がついてしまった気がしてきましたよ。ああ。ああ。

最後に、Musahipzade Celalという方の御本からの引用が興味深かったので孫引きします。オスマン時代の「ヘルヴァの集い」の様子を描いた一文:

……こうした「ヘルヴァの集い」で作られる主なヘルヴァといえばピシュマニエであった。腕にして二本ぶんもあろうかという太さの引き伸ばされた飴の輪を載せた、周囲に、ゆうに八人から十人は座れるほどの大きな錫めっきの銅製の盆が大広間に担ぎ出されてくる。飴の輪の中央には、バターで焦がした小麦粉がこんもりと盛りつけてある。熟練のピシュマニエ職人たちは袖をめくり上げ、まずは熱い湯と石鹸で手と腕を丹念に洗う。それから盆の周囲に座り、導師セルマーニーに捧げる祈願を朗誦する。それから飴の輪を、右から左へまわしてゆく。必要に応じて、手を小麦粉の山に突っ込んでは、再び飴を引き伸ばす作業に取りかかる。飴が折りたたまれ、細い絹糸のようになってゆくのを眺めつつ、客人たちは音楽を聞き、おしゃべりに興じる。楽人が伝承や音曲を奏で、人々はゲームや謎かけ、物語を楽しむ。そうして出来上がったピシュマニエは、客人の手のひらにひとつかみづつふるまわれた。

「導師セルマーニー」というのはサルマーン・アル=ファールシー、預言者ムハンマドと行動を共にしたいわゆる「サハーバ(教友)」と呼ばれる人々のおひとり。その名が示す通りペルシャ・オリジンで、ペルシャ人最初のイスラーム改宗者、というふうに伝えられている人物です。そのサルマーンさんに祈願を捧げてから作る、というのは、ピシュマニエがペルシャ由来の菓子であるのを寿いでのことなのでしょう。よいはなしです。

*****

ところで、「トルコのお菓子は日本人の口には甘過ぎませんか」と言われることが時々あります。

わたしは甘いものが好きです。お菓子、だあいすきです。さくさくしてるものとか、かりかりしてるものとか、冷たいのも温かいのも、噛みごたえのあるものでも、舌でおしつぶせるようなやわらかなものでも、わりと何でも好きですが、だめなのというか苦手なのがひとつあって、それはいわゆる「自然派」とか、「健康派」とかというよそおいの施されたジャンルのお菓子です。甘さひかえめだの、糖分カットだのヘルシーだのナチュラルだの、ふざけるな、と言いたくなります。

人間なら、誰でもいつかはかならず死にます。われわれは有限の存在なのです。与えられた時間も有限です。胃袋も有限。食べられるおやつの回数も有限。与えられた限りあるおやつの時間を、より充実した甘味でもって埋めたい。もしかして明日にもこの世の終わりが訪れるかもしれないのに、どうしてシュガーレスだとか、糖質カットだとかといったぱちもんで舌とお茶を濁していられるでしょうか。おからクッキーとか、みんな本当に「うまい」と思って食ってるんでしょうか。まあそれが好きならどうぞご自由にとしか言い様がないですが、私はいやだ。いやです。絶対いや。びんぼうくさくて本当にいや。貧乏はいやじゃない。でもびんぼうくさいのはいや。耐えられない。おやつくらい、贅沢させろ。もともと三食の埒外の、楽しみのために口にする贅沢であるものなのに「甘さひかえめ」っていうのが本当に意味が分からない。何故ひかえる。ひかえるな。

まあとにかく、甘いものが好きです。一時期は先鋭化して「これが究極である」なんつって角砂糖をかじったりもしていましたが、このごろは穏健派の範疇です。つまりそれなりに人の手の加えられた「お菓子」の態をなしたものに回帰しています。

映画鑑賞:『ミュータント・ニンジャ・タートルズ』2作め

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これは『ミュータント・ニンジャ・タートルズ』じゃないです。ムスリムです。正しくは、「映画に登場するムスリム」です。

Islam in Western Cinema, Part 1 – The Exotic Muslim, from the Exotic Land
Islam in Western Cinema, Part 2 – The Violent, Militant Muslim
Islam in Western Cinema, Part 3 – The Pious Muslim
Islam in Western Cinema, Part 4 – The Journey through American Islam

シカゴ大学でイマムを勤めるオメル・ムザッファル氏のエッセイ、「西洋の映画におけるイスラム」シリーズを読んでいました。著名なところで『アラビアのロレンス』から『マルコムX』、『アルゴ』まで、西洋シネマに表れるイスラムの、類型というかパターン別にパート1から4まで、「1. エキゾチックな土地からやってきたエキゾチックなムスリム」「2. 暴力的で好戦的なムスリム」「3. 敬虔なムスリム」そして「4. アメリカのイスラムを巡って」というテーマでつらつらと書かれています。おもしろいです。

「4. アメリカのイスラムを巡って」には、「ベクデル・テストに倣って」、鍵となるポイントをまとめた「シンプルなテスト」、というのがシリーズの総括的な感じで示されています。「なんかいいネーミングが見つかるまでは、ムザッファル・テストとでも呼んでください」。クリアしていないとテストに合格したとは言えない、というポイントは以下の通り:

1. 言葉がちゃんと通じる。
舞台が西洋のどこかで、使用言語も西洋のそれで、役名もある登場人物として二人かそれ以上のムスリムが会話を交わしているシーンなら、アクセントがあったとしても、あくまでもごく一般的なアクセントであること。映画の中のムスリムが、わけのわからないしゃべり方をするのってそれほど珍しいことではない。完全にインチキな訛り方がほとんど日常茶飯事みたいになっている。

2. ふるまいがちゃんとしている。
非ムスリムについてだの、帝国主義だの暴力だの性的堕落だの「以外」のトピックスについて、べつだん怒り狂うこともなく会話を交わしていること。映画に登場するムスリム・キャラのほとんどは、感情面に問題を抱えており、政治の話題しか口にせず、あるいは自制心がないふうに描かれている。

3. 女性は、人間です。
登場人物が女性の場合、それっぽい衣裳を着てるか着てないかでキャラ設定するのは×。映画におけるムスリム女性は、非ムスリム女性よりもさらにモノ扱いされる傾向が強い。だいたい、普段からことムスリムとなるとそれが政治家だろうが女優だろうが、日光浴が趣味の人物だろうがおかまい無し過ぎ。話題が、着ている衣類に集中し過ぎ。

4. 敬虔であることと、ナイーヴであることは違うでしょ。
映画に登場する信心深いムスリムというのは、ナイーヴな人物として描かれることが多い。ナイーヴで、無教養で、世間知らずで、非ムスリムによって啓蒙される(されないといけない状況になる)、みたいな描かれ方。

5. ちゃんと自律している。
イスラムなり、ムスリム社会なりから西洋人によって保護されたり、ものを教わったり「文明化」されたりせねばならない、というのは×。西洋の映画に登場するこの手の「白い救世主」の原型になってるのが『アラビアのロレンス』の主人公。

6. ちゃんと実際のイスラムをやっている。
(宗派ごとのバリエーションも含めて)神学的にも儀式的にもちゃんと実際のムスリムがやっているのと同じようにほんもののやり方でやること。『ロビン・フッド』のモーガン・フリーマンの礼拝のやり方とか、たとえ善意というか好意的に描いていたとしたって、まったくのでたらめというのは×。

以上。そんな感じ。6番めの、「モーガン・フリーマンの礼拝のやり方」は以前にManiac Muslimのハムザ氏もねたにしていました:

一体どうしてこんなことに。ちょっと調べればすぐに分かることだと思うんですが。

個人的には4があれですね。ストライクです。これ、映画に限らず実生活でもありがち。細かなところで、何の罪もないジョークを言っただけで「えっ、ムスリムがそんなこと言っちゃっていいの?」とか言い出す人とか、わりといたりいなかったり、いたりします。「敬虔で純粋で疑うことを知らないムスリム」「貧しいけれど心はきれいなムスリム」「無実のムスリム」「無辜のムスリム」「かわいそうなムスリム」じゃないと受けつけない人も、ムスリムかムスリムでないかに関わらず(これ重要)、わりといたりいなかったり、沢山いたりします。

「ごくふつうの日本人なので、宗教とかほんとよく分からなくて」と自称なさるような方まで、「ほんとよく分からなくて」とおっしゃるわりには、宗教に対する期待っぽい何かがめちゃくちゃ高かったりもするし。「え、そんなの聞いたことがありません」みたいなトリビアとか、いっぱい詰まってたりするし。何なんでしょう。何なんですかね。うーん。何なの。まあいいや。

*****

で、観てきました。近隣の映画館はどこもかしこも吹替え版ばかりで、字幕版を上映しているところを探すのがちょっとたいへんだった。

前作、ビジュアルが公開されたときには世界じゅうの亀愛好家が「これじゃない!」と悲鳴をあげていました。わたしもその一人でしたがもう慣れた。

と、いうか、今「前作」と言いましたしタイトルにも2作めって書きましたけれども、ここで言ってる「前作」というのはあくまでもマイケル・ベイ監督のそれであります。ニンジャ・タートルズは映画とか、アニメとか実写のTVシリーズとか映画とか色々たくさんあり過ぎて、なんかどれがどうオリジナルなのかということ自体がちょっと特定のしようがない感じがあります。原理主義者的にはwikiあたりに記述されているような「白黒の手刷り同人誌」とか答えるんでしょうけれど、そんなエピソードも後付けの神話にしか聞こえない感じもします。そしてわたし個人としては、この「感じ」をだいじにしていきたい。なんかいつごろからだか知らないけれど、誰でもなぜだか知っている、下水道に住んでるもの言う亀。ねずみの先生。あー、あれわりとおもしろいよね。キャラの名前が謎過ぎて笑うよね。好きだよ。ピザが好きなんだよね。タイトルがやたら長いんだよね、ニンジャ・タートルズ。ミュータント・ニンジャ・タートルズ。ティーンエイジ・ミュータント・ニンジャ・タートルズ。10代でミュータントで忍者で亀。わたしの入り口はケーブルTVの30分特撮実写シリーズでした。ビジュアル的には確かこんな感じだった:

Teenage-Mutant-Ninja-Turtles

画面左から、レオ、マイキー、ラフ、そして前列の真ん中(ストーリーの立ち位置的にはここじゃない)でしゃがんでいるのはドニー。マスクの色でキャラクターを見分けているうちはまだ修行が足りない。マイケル・ベイ氏に加点すべきところがあるとするなら、マスク無しでも見分けがつくくらいには四人の、というか四匹の描き分けが(外見的には)できてるあたりでしょうか。

で、まあ観てきたんですよ。ひたすら亀が好き、好きだった、あのTVシリーズおもしろくって大好きだったんだよね、というそれだけで観にいってる。だから何の意味があるのかよく分からないけど意味ありげにくるくる回転するカメラアングルとか、遠近感がくるいそうになるくらい微細に作り込まれた小道具とかカーチェイスがほにゃららとか「TEDトークよりコミックコンなのよね」とか「豚でも飛べた」とか「ドローン発進」とか、そういうのはもういいからええい亀を見せろ亀を、ってなった。いや、亀ももちろん見られましたし、これ以上どう亀を見せろというんだというくらい亀も見られたのでいいんですよ。いいんですけど、もっと亀を。亀を見せろ。

クにソがつくほどくっだらなくて、楽しかったです。

7月23日:ポケモンGO

トルコ クーデター未遂から1週間 米政府に証拠示せるか
トルコ ギュレン教団関係の団体など閉鎖 徹底的な取締り

なんかとてもさわがしい感じになっておるわけですが、それはそれとして。


『Pokémon GO』公式サイト

やじうまなので、気になるものは気になる。そこで、のこのこ出かけてゆきました。

新宿駅近辺。酒池肉林。
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ツバメ。代々木上原駅利用者には分かる。
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おー。
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おー。
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妙な自主規制的な何かをされちゃって、「配慮」という名の下になかまはずれにされちゃってたりしたら、それもそれでかなしいしさびしいなあ、などと思ってたのですが。杞憂以外の何ものでもありませんでした。さっそく、入り口から左側のソファに座ってしばらく待ってみる。

おー。なんか来た。
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わー。またなんか来た。
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カーディーじゃない。ガーズィーでもないよ。はっはっは。駄洒落おじさんはみんな天罰が下ればいいのにと思っていた頃がわたしにもありました。

このあと、やっと操作画面の右下にあるカメラのマークに気がついた。スクリーンショットではない、なんかちゃんとした画像を残せるようになっているのね。そうかそうか、べんりべんり。

礼拝堂の前で目が合った。
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後から「図鑑」を見てみたら、こんな説明書きがついていました。
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「尻尾を川に入れてエサを釣っているがそのうちなにをしているのか忘れてしまい川べりに寝そべったまま1日を終える。」深いな。なんか、ぴったりじゃないですか。

そして今この「たまご」をあたためちゅうです。何が出るかな。
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