「雪のヘルヴァ」

暑いし、汗は流れてうっとおしいし、昼寝以外に何もしていないので家の中は散らかるし(しかし昼寝しかしていないはずなのにどうして散らかるんだろう?)、何もかも嫌になってまたふて寝して起きてみるとすっかり日が暮れていて、おでこに汗まみれの髪がへばりついていたりほっぺたにタオルの跡が残っていたり、見苦しいことこの上もない。

こういうときは何かうつくしいと思えるものにふれたい。

Sufi Cuisine

ヘルヴァ

–– こころ優しい者の愛の中心では、あらゆる悲しみが
葡萄酒、焼肉、砂糖とヘルヴァのように並べられる ––
(『ディーワーン』、『マスナヴィー』より)

–– 指が長ければ手に入れられるというものではない
神において求める魂こそがヘルヴァを食べるのだ ––
(『マスナヴィー』より)

ヘルヴァは、メヴラーナの作品の中にもっとも頻繁に登場するお菓子です。彼の『講話(Makalat 1巻)』では、シャムス・タブリーズィーがペクメズのヘルヴァについて以下のように語ったとされています。

–– 愛情を込めて優しく撫で続ければ、さとうきびから砂糖の結晶を得られよう。時間をかければかいこから絹を得られよう。ゆっくりと時間をかけてなすべきことをなせ。青い葡萄の果汁からヘルヴァを得られる日がこよう。
(『マカーラート』より)

イレーネ・メリンコフによれば、メヴラーナの時代には「ヘルヴァの儀式」が執り行われていたとのことです。このことからも、オスマン朝のスルタンたちによる「ヘルヴァの集い」の歴史は、遠くセルジューク朝にまでさかのぼれることが分かります。「ヘルヴァの集い」は、コンヤではつい最近まで必ずといっていいほど頻繁に行われていました。サーデト・オンギュンは「1950年代のコンヤでは、人々は寒い冬の夜にしばしばお互いの家に集まった。夕食後の時間に訪れる客たちは、到着するとまずアラバシュ(熱々の、辛いチキン・スープに冷たいパン生地を添えたもの)かパパラ(乾いたパンと肉汁を使った料理)を振る舞われ、続いてその家庭の男性たちが作ったペシュメネまたはピシュマニエ(綿菓子にも似た菓子)か、女性たちが準備した麻の実入りのヘルヴァが供される。好みによって、その他の種類のヘルヴァが用意されることもあった」と書いています。テレビという娯楽の登場により、コンヤにおいてヘルヴァの集いは本当にすっかり珍しいものとなりました。

「青い葡萄」としたのは「未成熟の葡萄」のことです。これをしぼったジュースは英語だとヴェルジュース、ギリシャ語ではアグリーダなどと呼ばれて酸味づけの調味料に使われています。フランス語ではヴェルジュと言うらしい。また「ヘルヴァの『集い』」としてあるのは、「夜話会」「談話会」などとも訳されるソフベット(sohbet)の一種でしょう。ちなみにソフベットは5年前にユネスコの無形文化遺産に登録されていました。「へええええ……」となりそうになりますが、そんなことよりもヘルヴァです。ヘルヴァ!わたしの脳内事典には「お菓子のアーキタイプ。粉と脂と甘味と料理人の体力でできている」と記してあります。

helva
皿の下半分に盛りつけられてピスタチオのかかってる方のそれ、それがヘルヴァ。舌で押しつぶせるくらいのやわらかさですが、そこをあえて噛む。香ばしい生地から、煮詰まって濃厚になった甘味や、最初はふんわりしていて後からどっしりとした重さをもってのしかかってくる油脂のうまみがにじみ出てきます。

アーキタイプなどと大きく出てしまうと反論もあるかもしれない。しかしひとくちでも食べたことのある人ならきっとご納得頂けるのではないか。ご納得頂けない方はウィキペディアでも参照してください:

ハルヴァは、穀物、胡麻、野菜、または果物に油脂と砂糖を加えて作られる菓子。東はバングラデシュから西はモロッコまでの広い地域に見られ、冠婚葬祭にまつわる様々な行事で重要な役割を果たすことが多い。ほとんどのレシピにはバターまたはギーが含まれるが、逆に一部では植物油を使う。ピスタチオ、胡桃、アーモンド、松の実などのナッツ類やレーズン、デーツなどのドライフルーツは必須ではない。

「逆に」がどう逆なのかよくわかりませんが、まあいい。それからこちらはどうやら老舗らしきヘルヴァ屋さんのウェブから:

「ハルヴァ」という語はアラビア語のhulviyyatまたはhalaviyyatに由来しています。現代アラビア語では、ハルヴァは「かわいらしい」「きれい」といった意味でも使われ、あらゆるデザートの総称でもあります。とはいうもののハルヴァといえば、思い浮かべるのは主な材料として小麦またはセモリナ粉に砂糖やはちみつ、モラセスを使い、そこにミルクやバター、クリーム、ピスタチオやシナモンなどを加えて作る、誰もが知っている家庭的なデザートでしょう。そしてこれ以外にもタヒニ(ごまのペースト)を使った別のタイプのハルヴァがあり、こちらは家庭で手作りするのは難しいため、既製品が買い求められています。

ハルヴァはトルコや多くの中東諸国に様々な種類があるデザートです。

カシュガリ・マフムッド著『Divan-u Lugati’t Turk(テュルク語辞典)』にはハルヴァについて、それがトルコ料理の最高峰のひとつであり、セルジューク朝下においても食されていたとあります。またイレーネ・メリンコフによれば、セルジューク朝13世紀にはハルヴァはすでに存在しており、メヴラーナの時代には『ハルヴァの儀式』があったと記しています。

東京の食品・雑貨屋さんやネットショップなどでも売られているゴマ入りのヘルヴァ、あれもおいしいですが、わたしは粉と脂(油ではなく脂)と砂糖や蜂蜜をねりねりと練ってある、やわらかくてほんのりとあたたかいヘルヴァが好きです。そしてイレーネ・メリンコフさんってどなたなのだろう?それはともかく、Sufi Cuisineで紹介されているレシピをいくつか、以下に。

……ここで紹介するヘルヴァの他にも、メヴラーナが言及していないセモリナのヘルヴァも含め、現代のコンヤでは様々なヘルヴァが作られています。赤ちゃんがこの世に誕生したとき、私たちは歓迎のヘルヴァを作りますし、誰かがこの世から去ったときにもお別れのヘルヴァを作ります。誕生から逝去にいたる間の契約、結婚、割礼といったあらゆる儀式の場面にヘルヴァを食べるのです。

ヘルヴァはどのような粉でも作ることができますが、それにしても「故郷の小麦粉」として知られるトルコ産の粉を使って作られる機会が本当に少なくなってしまいました。

アーモンドのヘルヴァ

–– このような魂の前にはあらゆる息と共に美が届けられよう、
このような魂、誰も見出さぬところに美を見出す魂に。
あらゆる息に美を込める魂に届けられよう、
見たこともないようなアーモンドのヘルヴァの皿が。
(『ディーワーン』より) ––

–– 謙譲の心を持つ者は尊敬を得るだろう、
砂糖を差し出す者がヘルヴァを得るように。
(『マスナヴィー』より) ––

私のアーモンドのヘルヴァのレシピには、当時は貴重な食材であった砂糖を甘味として使用しています。お好みで砂糖の代わりに200-400グラムの蜂蜜を使ってもよいでしょう。甘味は加減なさってください。

[材料]4人分、またはそれ以上
バター 250g または1カップ
皮をむいたアーモンド 大さじ2杯
強力粉 100g または1カップ
全粒粉 100g または1カップ
砂糖 450g または2カップ
水 800ml または3と1/3カップ
ローズ・ウォーター 大さじ1杯

[作り方]
底のまるい鍋にバターを溶かす。アーモンドを小麦粉に加え、木べらを使い弱火で約60分、アーモンドと粉が黄金色がかった茶色に色づくまでかき混ぜ続ける(ヘルヴァをおいしくするには最低でも60分は火を通すこと)。ソースパンを用意し、砂糖に水を加えて火にかけ砂糖をすっかり溶かす。沸騰して約2分ほど煮詰めたら火からおろし、色づいた粉の生地へ注ぐ。さらにかき混ぜ続け、鍋の中身が鍋肌にこびりつかなくなったらごく弱火にし、ふたをして15分ほどそのまま置いておく。さじを使って皿にヘルヴァを取り分け、さじの背でヘルヴァの表面をきれいにならしたらローズ・ウォーターをふりかけて温かいうちに頂く。

ペクメズを使った黒いヘルヴァ

–– あらゆる樹の前に御方はヘルヴァを置きたもう、
ペクメズも、脂もなしに創りたもうヘルヴァを。 ––
(『ディーワーン』より)

コンヤでは今でも食されているとてもおいしいヘルヴァです。

[材料]4人分
溶かした澄ましバター 125g または1/2カップ
全粒粉 100g または1カップ
ミルクまたは水 50ml または1/4カップ
ペクメズ 200g または1カップ

[作り方]
バターに粉を加え、金茶色になるまでごく弱火で約60分じっくりといためる。ミルクとペクメズを混ぜておく。粉をいためたものを火からおろし、ペクメズとミルクを混ぜたものを注ぐ。火に戻し、鍋肌にこびりつかなくなるまでかき混ぜ続ける。出来上がったら15分ほどおいてなじませる。さじを使って皿に取り分け、さじの背の側をつかって表面をきれいに撫でつけできあがり。

ペクメズのヘルヴァを作りたい。しかし「最低でも60分」か。蝉の叫び声を聞きながら台所で60分。がんばれるのだろうか。御本にはこれ以外にもはちみつのヘルヴァ、さとうのヘルヴァ、粉の配合に工夫のあるヘルヴァなどが紹介されています。

材料・作り方共に基本形はすべて同じですが、ひとつだけ、このようなヘルヴァも紹介されていました。

……二行詩にもうたわれた忘れがたいヘルヴァのひとつに、コンヤに今も伝わる「雪のヘルヴァ」があります。私はこれもレシピのひとつに加えておくのがふさわしいと考えました。メヴラーナは砂糖を使ったようですが、現在のコンヤでは雪のヘルヴァにはペクメズを使います。

雪のヘルヴァ

–– 雪の降る日はあのひとに口づけしよう、
砂糖を雪に添えたなら、心も軽くなるだろうから。 ––
(『ディーワーン』より)

コンヤでは、冬の夜に雪のヘルヴァを食べます。砂糖が非常に貴重だった時代に、とても思いきった楽しみ方であったことでしょう。

[材料]4人分
雪 ボウルに4杯
ぶどうのペクメズ 大さじ4杯(好みやペクメズの種類によって量は加減してください)

[作り方]
雪が降り始めてから2、3日ほど、雪氷がなじんで落ち着くまで待つ。降る雪が軽く、ふんわりとし始めたらどこか標高が高めの、踏み荒らされていないきれいな場所へ出かける。積もった上の部分は避け、内側の雪をさじでボウルに集める。上からペクメズをまわしかけ、あなたのお客様に差し上げてください。

はなし好きのおじさんは好きです


Conversations With Salman Rushdie (Literary Conversations Series)

AM : えーと。わたし自身ムスリムだけど、でもあの本を攻撃的だとは思わなかった。第一に、あれをいち文芸作品として時系的な文脈上に置いた場合、以前からある一種の美学の流れを汲んだものとして分類できると思う。第二に、アイデアをめぐるこうした議論こそが現代イスラムというものの本質だとわたしは思う。

SR : そう。そしてこんなふうに考えを巡らせているムスリムが実は大勢いるというのも、もう分かりきったことだ。皆こうやってカフェに座って、同じような議論をやってる。こういうアイデアを思いついたのは自分が初めてだなんてわたしは全く思っちゃいない。思うに本当の問題は、ストーリーに対する権力を持っているのが誰なのかということだ。何を言ったかではなく誰が言ったか。ムッラーがこう言っただの、サウジがああ言っただの、ともかく誰かがストーリーに対する権力を持っていて、その根拠はというとだって「実際に権力を持っている」から、っていう –– たとえば経済力だったり政治力だったり、あるいは説教師の支配力だったりという具合に。

わたしはこれは実に興味深い論争だと思っている。だってイスラムの範疇を大きく越えた論争だからね。同様の論争はユダヤ教にもあった、フィリップ・ロスの『さようならコロンバス』が出たときもそうだし、キリスト教原理主義者の場合も似たようなことがあった。スコセッシの『最後の誘惑』論争なんかがひとつの例だ。まあ書かれたテクストの置かれる地位とは違うのであまり良い例とは言えないけど。だがカザンザキスがいたな。

世紀末が近くなったので宗教的心情が高まっている、というのも考えてみるのもありかもしれないね。

ミシシッピ大学出版会『サルマン・ラシュディ対談集』とでもしておきましょうか。1982年から1999年にかけてのインタビュー/対談記事が収録されています。話題の中心はまあだいたいにおいてブンガクですが、媒体は文芸雑誌らしきものから『プレイボーイ』誌まで、対談場所はロンドンの自宅だったりスウェーデンのなんとかホテルのラウンジだったり、あるいは「これがラシュディ@インディアの見納め!」みたいなタイトルの、「ボンベイでインタビュー敢行!」なんていうのもあったりします(インタビュアーはサリル・トリパティ)。それから先日お亡くなりになったギュンター・グラス(ラシュディの追悼文がちょっと話題になってたりもしました)との会話なんかも。

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夏がとてもあつくて困っています

暑くてあつくて呆然としていたらそろそろ7月も終わるそうです。このまま呆然としているその間隙を夏が勝手に自主的に縫うようにして過ぎていってくれるとたいへん助かるのだが。

Salman Rushdie on Islam: ‘We have learned the wrong lessons’
サルマン・ラシュディ氏、氏というかサーがイスラムに関して、というかイスラムに関して語る際のお作法的な何かについて、「われわれは間違った教訓を得てしまったらしい」と仏週刊誌のインタビューで語っているという記事。「もしも今のタイミングで『悪魔の詩』を出してたら、よってたかってシャルリ・エブドをたたいてる文芸エリートどもはおれのこともかばっちゃくれないんだろうなあ」と。

仏雑誌『エクスプレス』のインタビューに応じた小説家(サルマン・ラシュディ)は1989年、イラン指導者アヤトッラー・ホメイニーが彼に対する死刑宣告のファトワを発令したため潜伏生活に追い込まれた『悪魔の詩』の経緯を振り返り、「われわれは誤った教訓を得たらしい」と語った。「言論の自由に対する攻撃には抵抗すべきだとはっきりと悟るかわりに、妥協と自主規制でもって懐柔すべきだと考えるようになった」。

5月に米国ペンクラブが『シャルリ・エブド』誌への「書くことの勇気」賞授与を決め、これに対して「かねてより西欧世界のいたるところに見られる反イスラム・反マグレブ・反アラブ感情をいっそう強める材料」を定着させることになる、と訴える抗議文に総勢200名以上の書き手たちが名を連ねた一件について、この対立は「深い亀裂」を文学界にもたらしたとラシュディは述べた。マイケル・オンダーチェ、ピーター・ケアリー、ジュノ・ディアズのような作家たちが「こうした態度をとるとは」全く思いもよらなかったことだ、と彼は言う。彼はまた反対派の重要人物のひとりであるテユ・コールに、この状況について手紙を書き送ったことも明かした。

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なんとなく、続きます

British Artist Sarah Maple Receives Death Threats For Art about Feminism and Islam と、いう記事を目にしました。「英国人アーティストのサラ・メープル、フェミニズムとイスラムを扱った作品がもとで殺害脅迫を受ける」。おだやかじゃないですね。

英国人アーティストのサラ・メープル。多くの場合その作品は、英国籍の白人の父とイラン人ムスリムの母を持ち、カソリック系の学校に通ったという自らの複雑なバックグラウンドを扱っている。

2007年にチャンネル4とサーチ・ギャラリーが新進のアーティストに贈るニュー・センセーション賞を受賞すると、彼女のプロ・フェミニスト的作品は議論の的となった。彼女のサイトをスクロールすれば、沢山の彼女の自画像を閲覧できる。ベビー服、ブルカ、白雪姫といった衣装をまといさまざまなポーズをとるそれらの作品は、エンパワーリングと受け取る人もいればその逆と受け取る人もいるだろう。

絵画作品”Menstruate with Pride(2010)”では、クロッチに血の染みついた白いドレスを着てこぶしをあげる彼女が眉をひそめる見物人たちに取り囲まれている。

新たに発売された彼女の画集“You Could Have Done This”には、ヒジャーブを着て豚を抱きかかえる彼女の自画像も含まれる。「攻撃されているのはもっぱらあの作品」、彼女はそうガーディアン紙に語っている。「自宅の窓にれんがを投げ込まれて、それから殺害の脅迫を受けるようになった。わたしは自分の言いたいことを言っていいと思いたいけど、たぶん深いところではそうするのが怖いとも思うようになった。粛清みたいなものだと思う」。

脅迫や内なる自主規制への怖れを抱きつつ、彼女のサイトによればメープルは2016年に控えた展覧会に向け言論の自由をテーマにした新たな作品に取り組んでいる。

彼女のサーチ・ギャラリーの作品紹介ページを拝見しました。“I’m an edgy, contemporary artist”というセルフ・ポートレートに笑ってしまいました。“White Girl”もいいです。うん。ビジュアル・アーツは一目見て一発で「わかる」のがいいですね。どれもこれも、言葉で説明しようとすれば相当まだるっこしいことになりそうなシチュエーションが茶目っ気たっぷりに描かれていて好きです。

まあそうは言っても同時に記事文中にあるガーディアン紙のインタビューも読んでみて、

「ママはわたしの言うことには完全に賛成してくれてる。ただ、わたしの言い方が大嫌いなんですって。彼女はすごく信心深いの。今なんて断食してるし。でもわたしは彼女についても何かやりたいし、どうにかして彼女を巻き込みたい。まったくその気になってくれないけど。こうなったらもう彼女には内緒で先にやっちゃって、後で言えばいいかなって」

彼女の母上の仰りようにもおおむね同意します。いや、同意というか。こどもがこういうのをせっせせっせと描いたり作ったりしていたら、内心はともかく一応はたしなめておくのがおとなというものだ、などと。

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御本の記録:第2四半期(2)

いつつめ。

ウイグル十二ムカーム シルクロードにこだまする愛の歌

……どの国にもどの民族にも連綿と受け継がれてきた文化遺産があり、多くの人は無意識の内にそのことを誇りとし、自分たちのアイデンティティーを確認する手段の一つとしている。ウイグルのムカームは、ウイグル人にとってまさにそのような文化遺産の中の一つである。その価値の高さと重要性は、ウイグルのムカームが二〇〇五年、ユネスコ(国際連合今日行く科学文化機関)が作成し・発表した「人類の無形文化遺産の代表としてのリスト」に登録されたことでも証明されている。

……ウイグル民族のムカームは文学、音楽、舞踊の組み合わせで表現される総合芸術である。特定の人間が、ある特定の場所で作り上げたものではない。様々な場所で様々な仕事に従事する人たちが自らの手で生み出し、子供から孫へと伝えられ、数百年という時間をかけてその形が整えられていった。

ユネスコのムカーム紹介ページには「ムカームには地域ごとに大別して四流派あり、……」と、ドーラン、トルファン、ハミの地名が出てきましたが十二ムカームはどこに相当するのだろうか。うるむち。ほーたん。かしゅがる。何も知りません。トルクメニスタンとトルキスタンの違いも良く分かっていません。サラ・ペイリンかよ。すみません。御本のまえがきには「二十世紀になって再編集され整えられたムカームには十二ムカームという名が付けられた」とあったのでこれはあれだ。チョコレートの詰め合わせだ。チョコレートは大好きです。

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