ゆうべ帰宅して、翌日の糧となる予定のひよこ豆を一晩水に浸して戻そうとしているその合間にシャムスッディーン・タブリーズィー a.k.a. “一所不住、生涯無一物、飄々たる放浪の旅に生きる托鉢僧”の講話(maqalat)の冒頭、彼の子供時代の思い出話のあたりを引用してみようと思いました。
ある賢者たちは、精神は永遠であると言う。またある賢者たちは、それは「新たにやって来る」と言う。つまり、最初は無かったものが有るようになる、と言う。にもかかわらず、それは精神が合一の状態にあった時からかなりの時間を経た後のことだと言う。精神は位階づけされた軍隊のようなもの。だがこちらの一体感というのは種類が異なる。それは酒場に集う者どうしの一体感や、腐敗に手を染める者どうしの一体感である。
しかしわたしがここで言っているのは精神そのものとの合一である。神はすべてをご存知であられる。だがわたしが言っているのは、すべてをご存知であるその神との合一である。神は畏れる者と共にあられる(コーラン16章128節)。御方はこうも言われる、神はわれわれとともにいましたもう(コーラン9章40節)。で、あるならば神が最初に創造した精神の質においてはタタールもわれわれの馴染みであろうし、それはイマードも同様であるはずだ。
そのような合一に対して神は告げたもう、「われは水と泥でできた代理者をあらしめようと思う。そしておまえたちを、水と泥でできた世界を継ぐ者となそうと思う。」彼らは言った、「われらが神よ。われらはあなたと共にこの合一の世界で楽しく過しています。ここから遠く離れて、お互いに散り散りに分かたれるのを怖れます。」御方は言った、「おまえたちがわれに背いたり、逆らったりするつもりでそういうことを言っているのではないのはわれも承知している。案ずることはない、われの庇護を求めよ。合一が破られようとも、さほど怖れることはない。おまえたちはわれの力が絶大であると知れ。わが力には欠けるところがない。おまえたちがまとう衣裳やヴェイルのまさしくその内側において、われはおまえたちをひとつ処に集めよう。そしておまえたちに、互いへの一体感と合一を授けよう。」
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水と泥の世界のあちら側、目には見えない山の向こう側で、われわれはゴグとマゴグのように入り交じっていた。突然「落ちてゆけ(コーラン2章36節)」と呼び起こされ、われわれはそこを立ち去ることになった。はるか彼方に、存在の領域の境界線が見えた。だがあまりにも遠いため、町の様子や木々の様子は定かではなかった。これはわたしたちが幼い頃と同様である。子どもには世界を捉えられない。それは少しづつ明らかになってくる。餌と罠がもたらす害についても、徐々に分かるようになる。餌の味をおぼえ、それが罠の苦しみをやわらげるのをおぼえる。それ無しには在り続けることもできないと知るのは、おぼえてしまった後のことだ。
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