おじさんかっこいい

ビル・マヘルのトークショウでサルマン・ラシュディがヨーダをやっているのを鑑賞しました。

ビル・マヘルが「ユーモアにとっても、言論の自由にとっても受難の週だったよね」とか何とか言って始まるんだけど。ラシュディ氏はもうさすがっていうのか練りに練られているっていうのか、彼が口を開くたびに会場から笑い声が上がる。

ビル・マヘル「何しろもううんざりだ、みんなだってそろそろ我慢の限界なんじゃないかな」
ラシュディ「同意するね。シェイフ・ナスロッラー、ヒズボッラーの指導者だが、彼でさえ『彼ら(襲撃者)は、(シェルリ・エブドの)風刺画を描いた漫画家よりもはるかにイスラムを貶めている』と言っていた。彼、6年前には『(サルマン・ラシュディさえ死刑になっていれば)漫画家も、こんな風刺画を描こうとは思わなかったろうに』と言っていたんだけどね。と、いうことは、つまり彼でさえまるくなったということじゃないか。それにあのイランが、イラン人たちが、テロリズムに対する非難の声をあげている。何かが起きている。ひび割れっていうのかな、これ」

ビル・マヘル「政治と宗教が一緒くたってロクなもんじゃないよね。サウジじゃブロガーが鞭打ち刑になったりとか、トルコじゃ大統領が『男性と女性は同じではない。女性の第一の仕事は母親になることだ』なんていう発言したりとか。西側の政治家がこういうこと言ったらどうなると思う?こんだけ出来の悪いリンゴばっかりっていうことはやっぱり木そのものに何か問題があるんだよ」

ラシュディ「わたしが感じたのは、イスラムに変異が起きているということ。それも致命的な変異が。ここで言う『変異』というのは、ほら、あの、超有名なフィクション・ライターのダーウィンが言うところの『突然変異』とは違うんだが、ともかく変異が起きている」

ラシュディ「サウジの政体、イランの政体がそれぞれ莫大な資金を注ぎ込んで世界じゅうあちこちにモスクや学校を建てて原理主義的な教育を施している」

ラシュディ「(パリの)犠牲者については本当に痛ましいと思っている。彼らはきみ(マヘル)やわたしと同類だった。同じというのは、つまり他人に対して無礼にふるまうという意味でね。まあ無礼さで言ったら、わたしなんかきみにはかなわないが」

ラシュディ「だがこんなのはただの余興だ。イスラム世界に蒔かれている種子が問題だ。タリバンだのISISだのボコハラムだのアルシャバブだのといった組織を含めて色々なグループがイスラムによる世界征服を目指すよう人心に働きかけ、そのためならわれわれは二の次扱いされる。そういう扱われ方はわたしは好きじゃない」

はしっこに行儀良く座ってる善良なアメリカ人:「その指摘は非常にクリティカルだ。われわれアメリカ人が学んだのは、いや、われわれアメリカ人はいつでも何でもわれわれの問題だと思いたがるんだけど、これはイスラム対西洋じゃない。対立はイスラムの内部にある」
ラシュディ:「そう、イスラムの内部にある」
善良なアメリカ人:「テロリストvsトレランス然り、アルカイダvsマララ然り」
真ん中に座ってるいかにもアメリカの御婦人といった御婦人:「あら。でもアメリカ人の首がはねられたのよ。やっぱりわたしたちの問題でもあるわ」

ビル・マヘル「確かに多くのムスリムはトレランスの側にいる。問題は、テロリストもトレランスの側にいるムスリムも同じアイデアを共有してることだ。っていうか、こないだここにベン・アフレックとそのお友だちが来てたんだけど、見た?くっだらない大騒ぎしやがって。預言者をバカにしたっていう理由で漫画家が二人殺されてるんだぞ。殺人はバッド・アイデアだろ!女性差別はバッド・アイデアだろ!実に不幸なことに、そういうバッド・アイデアをテロリストと(ムスリムの)メインストリームが共有しているんだよ」
ラシュディ「それは断言できない」
ビル・マヘル「断言できない?」
ラシュディ「皆が皆そうではない。いや、というか、……なんでわたしがイスラムを擁護しなくちゃならんのだ。母親にも以前言ったんだが、わたしはもうチームを抜けたんだ」
ビル・マヘル「お母さん何て言ってた?」
ラシュディ「母は『ああいう人たちがいるからといって神を責めるのはよくないわ』と言ったよ。創造主まで子ども扱い扱いするんだからすごいだろう。神の名においてああいうことやってる連中の責任を、神が取らないで誰が取るんだ。神は赤んぼうか?!まあとにかく、パリ中のムスリムが通りに出てシャルリ・エブド支持を表明しただろう。何かあるたびにムスリムもテロに対し立ち上がるべきだとみんな散々言ってきたが、その通りになってるじゃないか。フランスのムスリムたち、というか『フレンチ・ムスリム』たちが、立ち上がっているじゃないか」

これに対してはビル・マヘルは何も言わなかった。代わりにロンドンのある宗教指導者がこう言ったああ言った、という別の話題をふり、それに対してラシュディが「まあそれはモラルの違いっていうか。言っておくけどあいつ、アンジェム・チョウダリーは別にどうってことないただの阿呆だよ?」と答え、「邪悪な発言と危険な行為を同一視すべきではない」的なことを。このへんはちょっとほのめかしっぽい言い回しが多くてあれなんだけど、そのあたりは別に具体的に語らなくても「ラシュディ」っていうそれだけでもう。説得力が服着て歩いてるようなものだから。

それから米の大手紙のほとんどが問題となった風刺画を掲載しなかったことについてビル・マヘルが「ほんと弱っちい卑怯者ばっかりだぜ」的なことを言い、ラシュディが「サーカスムがないとボートは前に進まない。というか、ポリティカルにリスペクトフルなサーカスムって一体おまえら何を言っているんだと」的なことを言い、最後に

ラシュディ「ムスリム社会の内部にある種のグループが、それもある程度パワフルなグループが複数ある。彼らは歴史の巻き戻しを望んでいる。預言者が生きていた七世紀には完璧な社会があったと信じていて、そこに戻りたくて仕方がない。彼らにとっては人類の歴史の前進それ自体が許し難いこと以外の何ものでもない。だから破壊してでも過去に戻ろうとしている」
御婦人「でもとても皮肉なことだけど、彼らが戻ろうとしているそのカリフ制の時代って、実はとても寛容な時代だったのよね」
ラシュディ「高度に文化的でね」
御婦人「とても皮肉なことだわ」
ラシュディ「あいつらはカリフ制について何も分かっちゃいないんだ」

別のところに書いたのを、こちらに保存しました。

「穏健派ムスリム」

The Problem of Moderate Islam and Why We Need to Redefine Radical

「穏健なイスラム」の問題点と、「ラディカル」の再定義の必要性

っていうタイトルだけ見て最初は「あー。まーねー。」って思ったんです。

穏健派ムスリムと聞いて、まずは何が思い浮かぶかというとわたしの場合は、例えばどこそこでテロがありましたとか衝突がありましたとか内戦激化とか、最近だったらオーストラリアのあれとかパキスタンのそれとか、ちょっと前ならアルジェリアのとか、ああいうのが起きるたびに「あれは本当のイスラムではありません!」って一生懸命アピールする(しなくちゃいけないと思い込んでいる/込まされている)感じの光景です。実際のところ、それが「穏健」なのかどうか分からないですけれども。

あれ、あんまり見ててきもちいいものでもないですね。っていうか「本当のイスラムではありません!」って言ってるひとたちが、というよりも、そういう言葉を言わせたがるひとたちがきもちよくないです。

たとえばラマダンの時に、オバマ氏がホワイトハウスから「はばはっぴーらまだん」みたいなコメントを出して、それはそれでいいんですよ、いいんだけどその「お声がけ」には、一体ぜんたい何の容疑で連れて来られたんだかも教えてもらえないまま、グアンタナモでのどに無理矢理チューブ突っ込まれて栄養食を(わざと昼間に)流し込まれてるムスリムも含まれてるんですか?っていうようなことも、こちらは同時に考えたりするわけです。

でもそういうのに対して「それが本当の民主主義ですか?」って言うのは「過激なムスリム」。学校にタリバンが突っ込んだ、みたいなことが起きた場合にのみ「あれは本当のイスラムではありません!」って発言する、発言するというか一緒に断罪することで安心感を与えることを期待されているのが「穏健なムスリム」。

……と、いうようなことをタイトルだけでぽぽぽぽって考えながら本文を読み進めたらなんか違いました。穏健なイスラムというのは静寂主義に陥るだけだからダメ!っていうのはともかく、「このままじゃ過激派イスラミストたちに勝てない!武装派ムスリムに対抗していくためにもっとこっちも過激にアピールしてかないと」的な記事だった。それは何ていうか。新発想だったわ、って思った。

で、そこではじめてこれを書いてるあなたはどなた、ってなって、お名前を検索したらプリンストン大学の学生生活課的セクションで「ムスリム・ライフ・コーディネーター」っていう肩書きで働いてるひとだった。なんか、ムスリム学生の礼拝のイマムを担当したりとかしてる。

だったら「イマム」でいいじゃん……何なの、「ムスリム・ライフ・コーディネーター」って。


Mideast Tunes’ Top 20 Indie Artists of 2014

2014年のトップ20インディ系アーティスト、と言ってもmideast tunesが選んだそれ、なので皆さん中東とかアフリカ大陸とかの方々です。いちばん上の方のスーダンのおねえさん。「ジャンル:ヌビアン・レトロポップ」とか言われても何ですかそれは、ってなります。でも聞いてみると、なるほどヌビアン・レトロポップ。や、正直に言うとヌビアンは分からなかった。でもポップがレトロなのは分かった。

それと、シャカシャカしたのやってるアレッポのお兄さん。業が深そうでいいですね。

別のところに書いたのを、こちらに保存しました。

「ごきげんいかが?」

12/31のわしぽすブログに「アメリカ人のご機嫌っぷりは異常。ずっと異常」ていうのがあがっていました。
Chart: Americans are in an unusually good mood ― all the time

「今日はどんな日?ふつう?それともいい感じ?それともやな感じ?」っていうサーベイで、実施したのはPRCです。質問者は、回答者にまずは別の話題をふってリラックスというか打ち解けてもらい、それから「今日は調子どう?」的な質問をする。と、いうプロセスで44カ国、48643人からの回答を集計したところ、2014年は世界の皆さんのうち約2/3が「いつも通りの日」、27%が「いい日」、7%が「わるい日」を過していた、という結果が出たのだそうです。

で、「富裕国では『いい日』を過しているひとはごくわずか。ただしアメリカを除く」。サイトには、過去何年か分の一覧などもありました。

日本人はここ数年、もうずっと「ふつうの日」を過しているのらしいです。「悪い日」を過してるひとは少ないけれど、「良い日」を過してるひとも少ない。見知らぬインタビュアーに今日の気分を尋ねられたら「えっあっ、んーまー、ふつうかな?」と、誰に質問してるの?あなたが質問されてるのよ?何で語尾あげるの?っていうトーンで、ちょっと戸惑いつつ&はにかみつつ答えるであろうこの島の民の様子がありありと目に浮かびます。いとおしいですね。

同時に、同じように見知らぬインタビュアーに「調子どう?」と尋ねられたら、見知らぬだなんて何を言っているんだもう出会っちゃったし友達じゃないかワッハッハ、「最高!最高だよ!」と答えるのがこの場合絶対に絶対に絶対に「いいこと」なんだ、と固く信じて疑わない(疑わないように努力している)、星条旗の下の「市民」の様子が、これもまたありありと目に浮かびます。ああ、いとおしい。

エジプト人が突出して「悪い日!」って答えていますけど、あのひとたちの場合、それは単なる「会話のきっかけ」に過ぎない。いかに悪い日であるかをマクラに、どう聞いても楽しそうとしか思えない調子で得々と延々と語り出しそうです。まあ本当のところ、いろいろ大変だろうとは思うのですけれどそれもそれでいとおしいです。逆にパレスチナなどは日本の3倍のひとが「いい日!」って答えてますが、これはもういとおしいを通り越してけなげ過ぎてなんだかせつなくなってしまうし、イスラエルでは7割が「ふつう」と答えてるのも色々とこう、深読みしたくなってくるものがあります。

パレスチナは国際刑事裁判所への加盟手続きを始めたそうですね。

思うところは色々あるのですが、えーと。同じ千代田区なら、二番町のイスラエル大使館の前でボイコットだの抗議活動だのよりも、麹町のパレスチナ代表部におこころづけ、の方向でいきたいと思います。つかイスラエル大使館の前でわあわあしても、イスラエルの国防予算をつり上げるだけのような気が。

はなしがそれました。

同じ南米大陸でも、アルゼンチンとブラジルではなんかやっぱりちょっと違うんですね。まあボルヘスとパウロ・コエーリョじゃぜんぜん違うよな。パキスタンの言う「いい日」っていうのは、あれ本気で「いい日」って言ってそう。ニカラグア、ナイジェリア、コロンビアあたりのことは全く分からないけどそっか「いい日」か、良かったよかった。

「2015年がよい1年でありますように」。えぶりでいいずぶらんにゅーでい!

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逃げよう

今年の夏頃にイラクに黒旗が立ったとき、「うーむ」とハディースを読み返していたらこのような一文を見つけました。

スワイド・ブン・ガファラによると、アリーは語った。神の使徒についてあなた方に何かを話すとき、嘘を言うよりは天から落される方がはるかにましだ。またあなた方にわたしとあなた方の間のことについて話すとき、争いは裏切りである。さて、わたしは神の使徒が次のように言うのを聞いた。「終りの日になると、年若い愚かな人達が現われ、彼らは世界で最も美しい言葉を話すが、その信仰は口先だけであり、丁度矢が的からそれるように彼らは正しい教えから離れるであろう。

お、って思うじゃないですか。おお、ってなるじゃないですか。しかしこれにはこんな続きがありました。

彼らと出遇ったならば、たちどころに殺してしまえ。彼らを殺した者には、復活の日、報いが与えられるであろう」と。

「たちどころに」って。「たちどころに」って!!!!!


ジャービル・ブン・アブド・アッラーは言った。我々が神の使徒とマッル・アッ・ザフラーンでカバースを集めていたとき、彼は「黒いのを採りなさい。それがよいから」と言った。それから我々が「あなたは羊の群を飼っていましたか」と尋ねると、彼は「勿論だ。群を飼わない預言者が一体あるだろうか」と答えた。

カバースというのは、灌木の一種らしき砂漠の植物になる木の実のことだそうです。熟してないやつをとるなよ、よく熟して食べごろのやつをとれよ、ってあれこれうるさく指し図していたんでしょう、きっと。それで皆さんが皮肉を言ったんですね。全体としては、和気あいあいとしてとても楽しそう。いいとししたおっさんたち(失礼)が、ぞろぞろ、ちっさな木の実を摘みに出かけて。

ジャービルは言った。クライシュ族の隊商を待伏せするため、預言者がアブー・ウバイダを頭に我々三百人の騎兵を送ったとき、激しい飢えに襲われて、我々は枯葉まで食べた。このために、これは「枯葉の遠征」といわれる。そのときアンバルという魚が海から打上げられたので、我々は半月の間その肉を食べ、油を体に塗り、すっかり元気になった。アブー・ウバイダがその肋骨を一つ取って立てたところ、馬に乗った人がその下を通れるほどであった。

アンバルってamber?マッコウクジラ?

わたしのコーランの先生は、「ハディースはむつかしいからあんまりいじるな。とりあえずコーラン読んどけば何とかなるから」という感じでした。でもわたしは、食べ物について書かれた文章というのが大好きなのです。それがたまたまハディースだったなら幸運だ。味覚、それはどうがんばっても伝えようのない(伝わりを、証明しようにも証明のしようがない)経験中の経験。

たとえば「海で取れるものを食うことは差支えない(コーラン5章97節)」に関するハディースであるとか。

アブー・バクル:水に浮くものはすべて食べてよい
イブン・アッバース:死んでいるが腐っていない魚の肉は大丈夫。あとジッリーという魚。ユダヤ教徒は食べないが我々は食べる
シュライフ:海の生きものはすべてそのままでも正規の仕方で屠られたものとみなそう
アブー・ダルダーゥ:いや魚っていうのはやっぱり酒と塩に漬けて天日干しにするんでないと正しく屠ったとは言えないでしょ
アター:鳥は喉を切って屠るべきだよね
アル・ハサン:ところでおれの鞍は魚の皮製だぜ
アッ・シャアビー:うちの家族は蛙は食べないんだよね。食べさせてやりたいんだけど
アル・ハサン:亀は問題ない
イブン・アッバース:海の獲物は誰が穫ったのでも食べていい。穫ったのがキリスト教徒でもユダヤ教徒でもゾロアスター教徒でも関係ない

「アブー・フライラによると、預言者はどんな食べもののことも決して悪く言わず、食べたければ食べ、嫌ならば残した、という」。でも何かの折りに、誰かがロバを煮込もうと火を焚いたら、怒って「鍋の中身をぶちまけて鍋は叩き割ってしまえ」と、すごい怒ったりしている。でもその場にいた別の誰かに、「鍋の中身はぶちまけて、鍋は洗ってまた使うってことでどうでしょう」と言われて「それでもいいけど」と答えてたりもする。じゃあなんでキれたんですか……。

お手元不如意時代を伝えるものなんかも。

サァドは預言者に従った七人の一人であったが、当時、アカシアの葉や実の他に食べものはなかったので、我々の便は羊の糞のようであった、と言った。

リアルですねえ。


「たちどころに」って。そんな鍋を叩き割るような具合にはいかないよー、と思ってたらこんなのもありました。

アブー・フライラによると、神の使徒は「争乱が起るとき、家で座る者は起つ者よりよく、起つ者は歩く者よりよく、歩く者は走る者よりよく、争乱に身を曝す者は亡びるであろう。逃げ場を見つけた者はそこへ逃げよ」と言った。

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趣味嗜好の問題:ハラール認証制度について

おれはまんぞくしている。ひつじ、おいしかったし。
イスラム教徒とハラールレストランに行って見えた“認証マーク”の功罪

まあ、何をどう言ってもわたしはふつうにぶたにくを食べて育ちましたからねえ。先祖代々、食べずにきたひとたちが、実際にどう感じるかとか、どう思うかとかまでは分かりません。

昔、トルコ人のおじさんが「おとうさんもおじいちゃんも、そのまたおじいちゃんも(豚肉を)食べずに何世紀も経ってるからおなかが受けつけないんじゃないかと思うんだよね」と言っていました。そういうのは理解できます。

そのトルコ人のおじさんというのは、トルコからまずアメリカに渡って米軍で4年勤務して、グリーンカードを取得して、そこから町田の基地勤務になって、それで日本人の奥さんもらって、日本に定住するようになったひとでした。人生いろいろありますですね。

ほんのときたま、絵本にまでつっかかって行って「さんびきのハラームなこぶた」とか言い出しかねない勢いのひとにも出会ったりするけど、そこまで忌避(というかもはや呪詛である)する感覚というのは、どうがんばっても分かりませんよ。

と、いうか、がんばる必要もないか。がんばる、というのの方向性を、もっとこう、かみさまを(かみさま「のみ」を)畏れることに集中させたら問題の8割、9割くらいは解決するんじゃないでしょうか。


以下は払拭です。

今年はあちこちでハラール認証に関するご意見を目にすることが多かったわけですが、そうした中で個人的に一番「ぶはw」ってなったのはこれでした→ イスラムの名を冠すぼったくりビジネス

「イスラムの名を冠すぼったくりビジネス」って。こんな御本とか、あんな御本とか書き散らかしてらっしゃるひとに言われてもね。自己紹介ですか?ってなります。

この「ハラール認証制度」というの、おおまかに分けると(一見)否定派・肯定派といると思うのですけど、

今、「(一見)否定派」と書きましたけれど、何故はっきりと「否定派」としなかったかというと、何だかんだで皆さん本気で全否定してるかというとそういうわけでもないんですよね。上記に挙げたコラムにしたって、何を言いたいのかをはかりあぐねつつ読み進めていくと、結局「いちばんよく知っているのはこのおれさまなのだ」くらいしか伝わってきません。

本気の否定派っていうのは、こういうののことですよ:
ハラル・ジャーナル –– ハラール認証ビジネスを切る!

英語だったらわんさかあるけどどうかなあ、と思ったらありましたありました、日本語でもありました。にやにやしちゃった。へっへっへ。これですよ。こうでないと。やっぱこういう、意味不明なりにせっぱつまった警戒心&危機感持ってくれないとこっちも調子が狂うからなあ(「このイスラムフォビアやろう」とか何とか、せっせと罵倒語の弾込めしながら)

うそです。うそうそ。冗談です。へいわがいちばん。

ちょっとだけまじめなことを申し上げると、↑みたいな人たちのスタンスと佐々木氏のご意見って、それなりに親和性「だけ」は高いんですよね(for ex. 「むしろ日本においてハラールを追求することは、文化的な観点からも問題があるのではないかと思っている」)。

あー、なんか払拭が払拭じゃなくなりはじめたんでこのへんにしておきます。

ひとつだけ、付け加えておくと、

「真の相互理解」というのは、がんばったらむくわれる系の何かでは全然なくって(たいていの場合は価値観vs価値観の泥仕合になるんですよね。だからって投げやりでいいということでもないだろうけど)、でもそのかわりと言っては何だけれども、それはバラカ/ギフト/恩寵の一種なので与えられるときは与えられる。だから安心して天の門へ入ろうではないか。

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