The Fringe Effect

ちょっと興味があります。
“Study shows increase in negative messages about Muslims in the media”

・公的言論の場では泡沫に過ぎなかった「恐怖や怒りの感情を利用してムスリムについてのネガティブなメッセージを発信する組織」が、9.11以降はメディア上のメインストリームになった、ということが、ノースカロライナ大学チャペルヒル校の社会学者氏の研究によって明らかになった。

・これをまとめた、『フリンジエフェクト:9.11攻撃以降の市民社会組織とメディア言説の展開』と題された論文がアメリカ社会学評論12月号に掲載される。

・論文執筆者のクリストファー・ベイル助教授は、検出ソフト(後述)を使用して、2001年から2008年までの間に総計120の組織が発表した、50000以上のテレビ・スクリプト+新聞記事に掲載されたムスリムに関する1084件のプレスリリースの及ぼした影響を追跡した。

・すると市民による社会組織の大半が、ムスリムを、平和的かつ貢献的なアメリカ社会の一員として描いていたにも関わらず、9.11以降マスメディアを独占していたのは、ムスリムについて否定的なメッセージを発信する組織であったことが判明した。

・その結果、ムスリムによるテロリズムに対する公的な非難声明はほとんどメディアの注目を集めなかったが、ネガティブなメッセージを流布する組織は、ムスリムが米国政府転覆の陰謀を企てているといった世評を生じさせるまでに至っていた。

・ベイル助教授は、マスメディアは、イスラムに関するネガティブなメッセージの流布を後押しするばかりではなく、こうした泡沫組織に、選民的保守派サークルにおけるソーシャル・ネットワーク形成や資金調達の機会を与えてしまったと指摘する。

・加えて最も重要な点として、ベイル助教授は、「アメリカの報道メッセージは繰り返し中東へも流れてゆく。アメリカの報道における反イスラム感情の高まりは、宗教的寛容に関する根本原則の踏み絵となるばかりではなく、『アメリカはイスラムとの戦争にある』とする海外の過激派の主張を正当化してしまっている可能性もある」と指摘した。

・ベイル助教授は、この研究を更に展開させた書籍の執筆に取り組んでいる。書籍は、泡沫組織がいかにしてマスメディアに限らず、公共政策や世論における文化的な変化を起こすに至ったのか、より広範囲に渡って解説するものとなる。

 


後述:「検出ソフト」 盗作検出ソフトを使ったんですって。同一の記述をソートするのに使ったのか。あったまいい!そういう使い方もできるのね。

おもしろそうなので読んでみたい。ターゲットはムスリムじゃないにしても、あれとかこれとかについてネガネガしい物言いをすることで注目を集めているフリンジ・パーティなんていうあたり、もうすぐ選挙があるらしい極東の某国にも当てはまりそうだ。

ところであんまり関係ないけれど、シリア国民の友人会議を日本でもやったのですね。考えてみたら、そういう会議をやるには最高のロケーションかも知れません。何しろ周囲は海だし、米軍基地は配備されてるし、何と言ってもサービス業は品質世界一だし(そして普段から外国人にちょっと冷たいくらいなのがこういうときにはちょうど良い、フレンドリー過ぎてもあれだし)。

貸し会議室立国ってどうだろう。

別のところに書いたのを、こちらに保存しました。
“The Fringe Effect”は、その後ほんとに御本が出ました。その1 その2

大掃除と英語本と

本棚をわっせわっせと掃除している。本棚って、けっこうホコリがたまるのよね。我が家に、ミシンが来てからというもの、なおさらホコリが沢山たまるようになった気がしている。

整理整頓していると、「何故このような御本がわたくしの部屋にあるのか」みたいなのとかも出てくる。「そういえば、何となく読んだかな」というようなのもある。そういうのは、ダンボール箱に詰めてしまうことにした。詰めた後のことは考えていない。焚書でもしてみようか。

ちらほら、翻訳まわりの御本も出て来た。

ひとりぼっちの英語人生 (続) (ブックス フォー ミリオンズ シリーズ)
これは図書館のリサイクル資料箱にあったのを拾ってきたやつだ。著者の村田聖明というひとは、ジャパンタイムスの論説委員を務めた方なのだそう。1984年初版となっているから30年前の御本で、日本英語教育協会というところが作っているのだけれども、前書きに、

・第一に、言語の二媒体(音声と文字)性を理解し、いずれの媒体をも偏重しないことの重要性
・第二に、発音記号による母音、子音の解明を通じて得られる効率的な発音習得

とある。本文は「文法大事だよ」「構文力大事だよ」というような、非常に地味なことが淡々と書かれていてすごくいい。発音記号については、学生の頃はとんとバカにしていた。としをとってからコーラン読みを習い始めた際に、そのことを猛烈に反省した。発音記号はちょうだいじ。ついつい、読んでしまって掃除が滞る。


翻訳—その歴史・理論・展望 (文庫クセジュ)

まあもうタイトル通りなのだけれど、この御本自体が仏語からの翻訳だから(クセジュクセジュ)、書かれている歴史も理論も展望も仏語圏のそれということになる。

最後の方で、2001年11月にパリで採択された「文化の多様性に関するユネスコ世界宣言/第12条」というのが出て来て、ユネスコの行動計画のひとつとして「母国語を尊重しつつ、教育のあらゆる段階において、可能なかぎり言語の多様性を奨励し、低年齢からの複数の言語学習を促進する」というのが引用されている。

「低年齢からの複数の言語学習(後述)」は、きちんと教師を雇って金と時間を惜しみなくつぎ込めばうまく行くのかも知れない。でもうまく行かなかった場合、「うまく行かなかった」では済まなくなると思うとちょっとひるむものがある。年齢が上がるにつれて抽象的思考が求められる割合がどんどん増してゆくから、学校の勉強に限っていえば、学齢で言うと中学2年あたりでぱったりと追いつかなくなる。

と、いうようなことを初回に読んだときも考えたよなと思いつつ、これいつ読んだんだったかなとぺらぺらとめくってみると「2009年7月1日(水)サンマルク・カフェ西新宿メトロ店 お土産チョコクロ」とかいうレシートが、背表紙とカバーの間から出て来た。17:19となっているから仕事帰りだな。お土産チョコクロだけ買って帰ればいいものを、「アイスチョコラテ」なども注文して寄り道している。本当にどうしようもないやつだ。そんなことだから、見ろ、三年経っても本棚整理とか言いつつ本読んじゃったり、全く成長がない。

あと丸善の藤岡啓介本とか岩波の新書とか出て来た。


英語翻訳練習帳 (丸善ライブラリー)
これはすごくありがたい御本で、これと似たようなのは無いかと探したものの、最初の数ページで放り出した『速読速聴・英単語』であるとか『越前敏弥の日本人なら必ず誤訳する英文』であるとかが、奥の方からのそのそ出てきた。全然めくった気配がない。むごいことをした。

 


「低年齢からの複数の言語学習」について。メインとなる言語、サブとなる言語、という具合に、最初から決め打ちにして、10歳くらいまでにはメインが不足なく使えるようにしてあげるのがよい。

と、いうようなことを、昔に住んでいたご近所のアメリカン・スクールの先生が言っていた。特にそういう研究みたいのがあるのかどうかは知らない。しかしことにミックスのお子さんをたくさん見てきた、ひとりのおばあちゃん先生の経験上からのアドバイスと思えば説得力がある。

別のところに書いたのを、こちらに保存しました。

にゅーずうぃーくめも

11/21付の、ニューズウィーク「イスラエルのガザ攻撃が持つ意味」というイラク政治がご専門の酒井啓子氏のお見立て。うーん。

なぜ突然、パレスチナでの戦闘が激化したのか。日本の報道の大半が「ガザを実効支配する”原理主義”組織ハマースがイスラエルにミサイルを撃ち込み、首都まで射程に入ったから」、それに対応してイスラエルが強硬手段に出た、と解説する。「ハマース=先に手を出した=悪者」との構造が、前提にある。

こうした切り取り方は、日本の報道のいつもの陥穽だ。その背景や長期的に続けられているガザに対するイスラエルの政策がどうなのか、考慮することなくごく短期間だけ取り上げて、どちらが先に始めたか、で判断しようとする。実際のところ、2008-9年にイスラエルがガザを大々的に攻撃して1300人以上のパレスチナ人の死者を出して以来、戦闘は繰り返されてきたし、ガザへの物資や人の移動を阻むイスラエルによる封鎖は続いてきたのだ。戦闘が激しくなったときだけの応酬を取り上げて「喧嘩両成敗」というのは、おかしな話ではないか。

きもちとしてよく分かる。んだけど、その後の

さて、今イスラエルがガザ攻撃を始めたのには、どういう意味があるのか。背景のひとつには、米大統領選でのオバマ勝利があるだろう。イスラエルのネタニヤフ政権はオバマと関係が悪く、専らロムニー陣営に肩入れしていた。オバマ政権が二期目で本格的に中東和平交渉に取り組むようになれば、ネタニヤフにとってはあまり面白くない。

だがそれ以上に重要なことは、今回の攻撃が「アラブの春」以来始めてのイスラエルの本格的攻撃だということである。

「「ハマース=先に手を出した=悪者」との構造が、前提にある」のがよろしくない、と言っているんだよね?ネタニヤフは(イスラエルは)中東和平交渉を望んでいない、という前提も同じくらいよろしくないのでは?

それでも、きもちとしてはよく分かるよ。んだけど、

(ちなみに、日本のメディアはハマースを「原理主義集団」と呼ぶが、同じイスラーム主義政党でも自由公正党やトルコの公正発展党には「原理主義」と呼ばない。ハマースを「原理主義」と呼び続けるなら、いっそエジプトのムルスィー大統領のことを「原理主義者の大統領」とでも呼べばいいじゃないか、と思うのだが。)

と、いうような、「原理主義とは何か」的というか「そもそも」的というか、一歩それると言葉狩りに堕してしまいそうな方向へ持って行ってしまうのも、日本の報道のそれと同じ程度には、日本の学者の「いつもの陥穽」だろうと思う。ハマ「ー」スって表記すればハマスが日本のメディアが定義するところの「原理主義」じゃなくなるのか。仮に「ハマスを原理主義集団と呼ぶのは過ちである」というのが酒井氏の主張なのだとして、その主張が正しいことの証明もどこにも書かれているわけでもなければ、ではハマスは何であると主張したいのかもよく分からない。用語の混乱に乗じて、その用語で語られるものの実体を混乱させようとしているふうにしか思えない。

ハマスはハマスで結構むごいよ?マフムード・ダルウィーシュさんという詩人さんがいる。2008年にお亡くなりになった時には国葬が行われたほど、パレスチナの皆さんには国民的詩人として愛されていたひとだ。そのマフムード・ダルウィーシュさんなども、お亡くなりになる2、3年前には、ハマスがパレスチナのある音楽フェスの開催を禁止したというので「私たちの内部に、タリバンじみた連中がいる」とハマスを批判していたよ。

ムルシー氏のことは良く知らないし、就任後も色々と批判が出ていたりはするけれど、それでも「批判が出ている」=批判ができる、ということ自体がすごいじゃないか、くらいには思ったりする。パレスチナの離反ムスリムを相手にちょくちょく粛清やったりしているハマスと、その他の政権を同列に語れというのは、たとえ皮肉のつもりだとしてもちょっといかがなものかと思う。

エジプトの大統領のひとがガザへ行った、っていうのはかなりインパクトのある出来事だし、アメリカがイスラエルの自衛権を支持する、と言っているのは要するに「手の届く範囲」のことしかしませんよ位のことであるし、そのかわり、というのもおかしいかも知れないけれど、トルコやヨルダン、湾岸諸国がわさわさと忙しそうにしているのとかはどうでもよいのだろうか。週1の更新だし、タイムラグもあるから仕方がないのかな。

こんなふうに、ひとの言うことにけちばかりつけるのも良く無いなあとは思う。それでもなんだかがっかりしてしまったというのが正直なところ。「イスラエルが一番困るのは、周辺国が民主的な親米・反イスラエル政権となることだ」とかさあ、なんかこう……。どうしてそんなに煽り気味なの。

まあいいや。

「アラブの春」以降に樹立した新政権の皆さんには、反米でも反イスラエルでも何でもいいので、自分たちのお国の皆さんが一番困らないことを目指して下さい、と心から思う。

別のところに書いたのを、こちらに保存しました。

○○人

なんだか、興味深かったのでめも。
“Bahram Shahnazar: Notes on Rumi’s Iranian Origins”

ファッローフさんという歴史ものの物書き氏のブログ。ジャラールッディーン・ルーミー翁のルーツについて、「ルーミーのイラン人性について」と題して書いていらっしゃる。

ブログの本文中では「ペルシャ語とペルシャ文化に固く結び付いた人物」とルーミー翁を結論している。それについては、誰も否定しないんじゃないかな。でもそこで「イラン(あるいは現代イラン)」って飛躍されると、否定はしないまでもそれはちょっと待って、ってなるひとは少なくないんじゃないかな。

ルーミー翁はなに人なのか、というのはまともに考えると結構おもしろくもあり、骨の折れることでもある。そのあたり、皆さん賢く立ち回って断言しないようにしているように見える(この立ち回り加減を観察するのもおもしろい)。↑のブログでも少し引用されているけど、アンネマリー・シンメルさんというえらい学者さん、彼女もルーミー翁のルーツについては「非常に慎重に」発言を控えている。

なに人か、というのは何をもって決まるのかな?出生地で決まるのかな?それとも居住地で決まるのかな?それとも「人種」かな?使用している言語かな?

「人種」で言うなら、ルーミー翁のお父上の家系は初代カリフのアブー・バクルにまでさかのぼる(と、いうことになっている)ので、「アラブ人だ」と言おうと思えば言えてしまう。お父上、どこで生まれたのかについては確定的な資料は無いようだ。自伝によれば、若い頃は現代でいうところのタジキスタンで教師をやっていたということになっている。ルーミー翁もその地で生まれている。

「ペルシャ語を使っているのだから」という理由でルーミー翁はペルシャ人だ、と言うひとたちがいる。昔のアフガニスタンで生まれたのだからアフガニスタン人だ、と言うひとたちもいる。ただ、ルーミー翁が生まれた当時は、そのあたり一帯がペルシャ帝国の一部だったりもする。近頃では、このごろは、だからユネスコなどもそうだけれど、「ルーミー(ルームの人)」だけではなく出生地のバルフの名を加えて「バルヒー(バルフの人)」と記される機会も増えつつある。

↑のブログで、ファッローフさんは「トルコ文化庁の出版物には、ルーミーのペルシャ人的側面を矮小化するような記述があっておかしい」的なことを言っている。さすがに、「コンヤで過ごしてコンヤで死んだのだからトルコ人だ」、と言い出してしまうようなトルコのひとには、今のところ会ったことがない。コンヤでは、今でも(あの有名な)シェブィ・アルース、ルーミー翁の命日を記念する式典の他に、ルーミー翁がコンヤに到着した日をお祝いする行事もあったりする。それはおいて、でもルーミー翁はともかく、その後に出来たメヴレヴィー教団についてはオスマントルコ産だと思っているトルコのひとたちは少なくないだろう(「外国」の事物と思っているひとはそうそういないだろう、というくらいの程合いで)。

メヴレヴィー教団の創始者であるルーミー翁の息子さんであるスルタン・ヴェレド(アラブ式だと「スルタン・ワラド」と発音される)は、ペルシャ語はできても、トルコ語はほとんどできなかったそうだ。そのことを、自作(とされる)詩のなかで「だって出来ないものは出来ないんだもの」と嘆いていたりする。移民二世。ちょっとだけ、せつないものがある。

別のところに書いたのを、こちらに保存しました。

“$elling Spirituality”という御本を読みました

“$elling Spirituality”という御本を読みました。表紙かっこいい。

$elling Spirituality: The Silent Takeover of Religion

風水、ホリスティック医学、アロマキャンドル、ヨガで過ごす週末。スピリチュアリティは巨大産業だ。それは現代生活における不安を和らげ、軽薄 な物質主義への解毒剤の提供を約束する。”Selling Spirituality”はこうした誤謬に対する簡潔かつ鋭い非難である。本書はスピリチュアリティ –– 保守的な政治態度、自己表現の抑圧、東洋思想 の植民地化を反映した『文化依存症』 –– がいかにして事実上グローバル市場における有力商品となったのかを解説する。現在のスピリチュアリティが近代西洋における宗教の「民営化」であることや、この「会社乗っ取り」から利益を得ているのは誰なのか、どのようなブランドが存在するのか、スピリチュアリティが資本主義と資本主義の欺瞞に対する対抗手段となり得るのかを明らかにする。云々。

書かれたのは2004年(出版は2005年)、書いてるのはジェレミー・カレットさんという英国ケント大学の教授のひとと、リチャード・キングさんというインド哲学・宗教がご専門でパリ在住の大学講師のひと。スピリチュアルについて、先日読んだ別の御本では、いわゆるスピリチュアルなるものを「宗教というドメインフリーの知的財産を個人需要向けに再パッケージ化した商材(注)」というふうに定義していましたが、それがここでもそっくりあてはまるという感じでした。

「新自由主義とは何か」から始まって、心理カウンセリングとか心理療法とかいったものが「資本主義社会における『良き消費者』」を育てるお道具になっている、のあたりとかおもしろうございました。「心理学は科学としての分を弁えろ、それが出来ないならすっこんでろ」くらいのことを言っている。

事例として取り上げられているのはヨガだったり仏教だったり冒頭の風水だったり、大体がいわゆる東洋発の何かで、それについては「文化強奪だ」「植民地主義だ」と。西洋人読者を想定して書かれているからそうなるのだろうけども、ここらへんはかなり言葉が激越な感じなんで、なんかちょっとこう。いち東洋人としては「まあまあ、ちょっとお茶でもいかがですか」って言って割って入りたくなりました。

資本を神とする資本主義という宗教がいちばん力を持ってる現代では、「宗教を持つ」=資本主義のエシックに従わない=一種の「無神論者」になる。と、いうことで、読者のうち購買層にあたる皆さんに対しては「スピリチュアルに対して無神論者的な態度を取ること」、供給層に対しては「宗教がラディカルな社会変革を起こしたのと同じような作用」を、それぞれ期待する。と、いうふうにしめくくられている。

あー。おもしろかったです。しかしそうは言っても、そもそもわたしは「スピリチュアル」系に全く好意を持ってないので、正直になるよう自分を問いただしてみるに、どう見積もっても三、四割くらいは「敵の敵は味方」的な感覚でおもしろかったと言っているフシがある。残りの六、七割は結論に対する好悪ではなく、「ここがこうでこういうふうに駄目なんだ」、という結論に至るまでのプロセスというか、理由の立て方とか話の進め方とかに対する評価。

「ラディカルな社会変革」ってむつかしいですね。どういう感じの変革がいいかね。「無神論者」になる(というか、なりきる)というのもむつかしいことです。関係あるかどうか分かりませんけれども、以前にモスクのせんせいに「社会主義と共産主義には触れちゃなんねえ」って言われたとき、その理由というのが「唯物論だからだめ」とか「無神論だからだめ」とかじゃなくって「財産の私有を認めないからだめ」でした。おもしろーい、って思ったんだけど。

芋づる式に思い出したんですけれども、これも先日、「アラブの春」関連で読んだ人口統計(?)の学者さん(名前が出て来ないのだけれど、部屋が散らかってるので本を探して確認するのはめんどうくさい)が、ヨーロッパ限定でのお話として「近代ヨーロッパじゃ宗教を持ってるようなおバカさんはいくらでも軽蔑していい、っていうことになってるから。ムスリムは『第二のカソリック』みたいなものなのよね」とか言っていました。宗教だとバカにされるけど、スピリチュアルだったらバカにされないで済む、ってことでしょうかね。

(注)「宗教というドメインフリーの知的財産を個人需要向けに再パッケージ化した商材」
『宗教と社会のフロンティア』という御本が先々月に出てて、

宗教と社会のフロンティア―宗教社会学からみる現代日本

宗教学も社会学も宗教社会学も良く知らないわたしには、入門書としてとてもおもしろかったのですが、この本の中でも「宗教団体が宗教的なるものをパッケージ化して提供しているのに対して、スピリチュアルといわれる事物はそれを「バラ売り」しているのだという見方ができる」というふうに説明されていました。漠然と「スピリチュアルいけすかない」とかと言っているような身としては、こうしてきちんとことばにしてくれるのはありがたいですね。

ところでこの御本、第12章「グローバル化する日本の宗教」でイスラムにもちょこっとだけふれられてあります。それによるとわれわれ日本のムスリムの最大の関心事は「子供の教育」と「墓場の確保」らしいです。何しろ、「宗教社会学」とかというのの立場からの御本なのでそこに視線が行くのはまあそういうものなのかとも思いますけれども、「子供の教育」とか 「墓場の確保」とかに一喜一憂していられるならまだ良い方で、それ以前に衣食住、つまり仕事であるとか住居であるとかの確保がとっても大変、というムスリムが圧倒的大多数だろう。と、いうのが個人的な体感です。

別のところに書いたのを、こちらに保存しました。