“$elling Spirituality”という御本を読みました

“$elling Spirituality”という御本を読みました。表紙かっこいい。

$elling Spirituality: The Silent Takeover of Religion

風水、ホリスティック医学、アロマキャンドル、ヨガで過ごす週末。スピリチュアリティは巨大産業だ。それは現代生活における不安を和らげ、軽薄 な物質主義への解毒剤の提供を約束する。”Selling Spirituality”はこうした誤謬に対する簡潔かつ鋭い非難である。本書はスピリチュアリティ –– 保守的な政治態度、自己表現の抑圧、東洋思想 の植民地化を反映した『文化依存症』 –– がいかにして事実上グローバル市場における有力商品となったのかを解説する。現在のスピリチュアリティが近代西洋における宗教の「民営化」であることや、この「会社乗っ取り」から利益を得ているのは誰なのか、どのようなブランドが存在するのか、スピリチュアリティが資本主義と資本主義の欺瞞に対する対抗手段となり得るのかを明らかにする。云々。

書かれたのは2004年(出版は2005年)、書いてるのはジェレミー・カレットさんという英国ケント大学の教授のひとと、リチャード・キングさんというインド哲学・宗教がご専門でパリ在住の大学講師のひと。スピリチュアルについて、先日読んだ別の御本では、いわゆるスピリチュアルなるものを「宗教というドメインフリーの知的財産を個人需要向けに再パッケージ化した商材(注)」というふうに定義していましたが、それがここでもそっくりあてはまるという感じでした。

「新自由主義とは何か」から始まって、心理カウンセリングとか心理療法とかいったものが「資本主義社会における『良き消費者』」を育てるお道具になっている、のあたりとかおもしろうございました。「心理学は科学としての分を弁えろ、それが出来ないならすっこんでろ」くらいのことを言っている。

事例として取り上げられているのはヨガだったり仏教だったり冒頭の風水だったり、大体がいわゆる東洋発の何かで、それについては「文化強奪だ」「植民地主義だ」と。西洋人読者を想定して書かれているからそうなるのだろうけども、ここらへんはかなり言葉が激越な感じなんで、なんかちょっとこう。いち東洋人としては「まあまあ、ちょっとお茶でもいかがですか」って言って割って入りたくなりました。

資本を神とする資本主義という宗教がいちばん力を持ってる現代では、「宗教を持つ」=資本主義のエシックに従わない=一種の「無神論者」になる。と、いうことで、読者のうち購買層にあたる皆さんに対しては「スピリチュアルに対して無神論者的な態度を取ること」、供給層に対しては「宗教がラディカルな社会変革を起こしたのと同じような作用」を、それぞれ期待する。と、いうふうにしめくくられている。

あー。おもしろかったです。しかしそうは言っても、そもそもわたしは「スピリチュアル」系に全く好意を持ってないので、正直になるよう自分を問いただしてみるに、どう見積もっても三、四割くらいは「敵の敵は味方」的な感覚でおもしろかったと言っているフシがある。残りの六、七割は結論に対する好悪ではなく、「ここがこうでこういうふうに駄目なんだ」、という結論に至るまでのプロセスというか、理由の立て方とか話の進め方とかに対する評価。

「ラディカルな社会変革」ってむつかしいですね。どういう感じの変革がいいかね。「無神論者」になる(というか、なりきる)というのもむつかしいことです。関係あるかどうか分かりませんけれども、以前にモスクのせんせいに「社会主義と共産主義には触れちゃなんねえ」って言われたとき、その理由というのが「唯物論だからだめ」とか「無神論だからだめ」とかじゃなくって「財産の私有を認めないからだめ」でした。おもしろーい、って思ったんだけど。

芋づる式に思い出したんですけれども、これも先日、「アラブの春」関連で読んだ人口統計(?)の学者さん(名前が出て来ないのだけれど、部屋が散らかってるので本を探して確認するのはめんどうくさい)が、ヨーロッパ限定でのお話として「近代ヨーロッパじゃ宗教を持ってるようなおバカさんはいくらでも軽蔑していい、っていうことになってるから。ムスリムは『第二のカソリック』みたいなものなのよね」とか言っていました。宗教だとバカにされるけど、スピリチュアルだったらバカにされないで済む、ってことでしょうかね。

(注)「宗教というドメインフリーの知的財産を個人需要向けに再パッケージ化した商材」
『宗教と社会のフロンティア』という御本が先々月に出てて、

宗教と社会のフロンティア―宗教社会学からみる現代日本

宗教学も社会学も宗教社会学も良く知らないわたしには、入門書としてとてもおもしろかったのですが、この本の中でも「宗教団体が宗教的なるものをパッケージ化して提供しているのに対して、スピリチュアルといわれる事物はそれを「バラ売り」しているのだという見方ができる」というふうに説明されていました。漠然と「スピリチュアルいけすかない」とかと言っているような身としては、こうしてきちんとことばにしてくれるのはありがたいですね。

ところでこの御本、第12章「グローバル化する日本の宗教」でイスラムにもちょこっとだけふれられてあります。それによるとわれわれ日本のムスリムの最大の関心事は「子供の教育」と「墓場の確保」らしいです。何しろ、「宗教社会学」とかというのの立場からの御本なのでそこに視線が行くのはまあそういうものなのかとも思いますけれども、「子供の教育」とか 「墓場の確保」とかに一喜一憂していられるならまだ良い方で、それ以前に衣食住、つまり仕事であるとか住居であるとかの確保がとっても大変、というムスリムが圧倒的大多数だろう。と、いうのが個人的な体感です。

別のところに書いたのを、こちらに保存しました。

「アラブの春」関連の御本を色々めくっためも(3)


アラブ革命はなぜ起きたか 〔デモグラフィーとデモクラシー〕


〈アラブ大変動〉を読む――民衆革命のゆくえ
この2冊はほとんど同時期に並行してめくりました。トッド氏は人口学とか人類学とかがご専門、酒井氏が編者になってる方のは皆さんアラブをご専門とするいわゆる地域研究のひとびとで、エジプト、レバノン、シリア、イラク(酒井氏のフィールドですね)、ヨルダンなどの動向であるとか背景であるとかにふれられてある。

トッド氏の方については、そもそもそういうジャンル(人口学?人口統計学?)について良く知らないので面白い。面白いんですが「アラブ革命も予言していたトッド」とか帯に書くのやめてほしいです。「えーと」、ってなるじゃないですか。わたしは小心者なので、そういう煽り方されるとそれだけで忌避したくなるんですよ。読んでるぶんにはおもしろかったですけどもね。インタビューを元にした御本なのでさっさとめくれるし。巻末に「トッド人類学入門」と題した訳者の方による用語解説的なものがついてくる。便利ですね。でもそんなのがないと読み解けない御本って不便ですね。不便ともちがうか。何ていうんだろ。

出生率であるとか識字率(考えてみれば、ツイッターにしてもフェイスブックにしても字が読めないことには始まらないものですねえ)であるとかの推移から、氏は「(アラブの春は)予測できてた」的な、分かってた分かってた、いつか起こるとおれには分かってた的なことを言っている。

逆に酒井氏が編者になってる方の御本では「予測不可能だった」「思ってもみなかった」「驚いた」というような言葉が並んでいる。ムバラク政権はそれなりにうまくやってきていると研究者達は解釈していたのだから「革命」を読みきれなかったのも道理です、と、編者の酒井氏はまとめている。そうなのか。

でもそれ以外は、皆さんてんでばらばらに言いたいことを言っている。9.11直後は皆さん口を揃えて「イスラームは平和な宗教です」ってそればっかり仰っていたような記憶がありますが、「のろいが解けた」のならそれは良いことだと思いました。来年、再来年になれば皆さんもっとばらばらになっていると思う。ばらばらと言えば、シリアについての章にあった青山弘之氏の一文がなんかすごかった。要約すると、

・アサド政権は道義的には受け入れ難い
・だがそのような政権を有効にしてしまっているのは周辺のアラブ諸国と欧米のせい
・政権も反体制勢力も安易に内政干渉を呼び込んでて無責任

その「無責任が、民衆の意思から「革命」を切り離し、その精神を死に至らしめることを忘れてはならない」んだそうです。何と言うか、どこからつっこんだらいいのか途方に暮れるんですが、もうちょっと落ち着いて良く考えてからものを言ってほしいと思った。

まあそんな感じで総勢12名の研究者の皆さんが色々言っている。ただねえ、その12名の研究者のうちアラブ出身者はたったの1名なんですよね。うーん。まあいいや。それはそれとして、カイロ大学で日本語を教えているエジプト人の先生の寄稿エッセイが、そのエッセイ「だけ」がきらきらと輝いてみえましたよ。

そんなわけで「アラブの春」関連めくったよめもはこれでおしまい。全部図書館で借りたのですが、ジェルーン氏『アラブの春は終わらない』と『中東戦記』は、あらためて購入しました。

某協会理事の水谷周氏が編纂した御本、あれもめくっておこうかとは思ったんだ。思ったんだけど、図書館になかったからめくってません。

別のところに書いたのを、こちらに保存しました。

「アラブの春」関連の御本を色々めくっためも(2)

「アラブの春」関連本をめくっためも・その2。


エジプト革命―アラブ世界変動の行方 (平凡社新書)
自宅−代々木上原間1往復で読み終えられるだろうとふんでたんですけど駄目でした。思いのほかみっしりしていた。今の今までお名前も存じ上げないひとの御本です。エジプト近現代史がご専門とのことで、ここ1世紀くらいの間に起きた反乱、騒乱(あるいは成就しなかった革命)のたぐいをおさらいしたりするんですけど、そこにイランも含めて語ってらっしゃるのはなんかこう、新鮮。これ、別の御本のご案内的な意味で書かれたものだそうなので、じゃあその別の御本ってどんなものなのだろと思ったらこんな御本だった:

アラブ革命の遺産 エジプトのユダヤ系マルクス主義者とシオニズム

「革命」って、そっちの「革命」の話かよ!

うーん。えー。おもしろいのかなあ。でもなんかややこしそうだなあ。社会主義と共産主義にはさわっちゃだめ!ってモスクのせんせいも言ってたしなあ。でも「ユダヤ系エジプト人」にはさわってみたいかな。例えばこんなのとか:

お若いエジプト人映画監督が作成(中?)のドキュメンタリー・フィルム。1948年にイスラエルが建国されるまでは10万人(とも、8万人とも)のユダヤ系エジプト人がカイロやアレキサンドリアにコミュニティを作って住んでいたんだよ、っていう…、ナセル氏がエジプト国内のユダヤ系エジプト人を追い出したり国籍剥奪したりしてなければ、今頃はシオニズムに対する強力なカウンターになってたかも知れませんですね。皆が皆、嬉々としてイスラエルに移住してったわけでは無い。

でもそれは今からでも遅くないはずですね。何て言うんですかね。「アラブの春」というのが何か良いことをもたらすとしたら、それはこういうフィルムがおひさまの下で堂々と作られ、そして堂々と人口に膾炙してゆくことではないか。うーん。やっぱり読んでみようかな『アラブ革命の遺産』。でも社会主義と共産主義にはさわっちゃだめ!ってモスクのせんせいも言ってたしなあ。エジプトのユダヤ系マルクス主義者vsインド共産党毛沢東主義派だったら、どっちの方が強いかなあ。


現地発 エジプト革命――中東民主化のゆくえ (岩波ブックレット)
ムバラク氏退陣までの約3週間の現地報告そして記録。あ、これ良いですね。なんかここまで、もろもろ「思い入れ」の強い感じの御本をめくっちゃったんでぐったりしちゃったんですけど。これ良いです。


中東戦記 ポスト9.11時代への政治的ガイド (講談社選書メチエ)
これ、直接「アラブの春」を扱ってるわけではなく2001年9月11日前後のアラブ諸国訪問記なんですけど、副題が「ポスト9.11時代への政治的ガイド」ってなってるし、「アラブの春」って「ポスト9.11」で合ってますよね、と思ってめくったのですが。訳注やら訳者コラムやらがやたらと凝っていて、なんだこれかっこいいな、と思って訳者の名前を見たらピカチュウ、なんだよサトシじゃないか!

ぜんぜん気付かなかった。うかつだったわー。

に、しても他の皆が皆そろいもそろって「おれのはなしをきけえ」となっているこのタイミングで、サトシは10年前の(それも学術書ではなく)紀行文を翻訳することをチョイスしてしまうのですね。何かもう言葉もないわ。かっこいいなあもう。

と、いうような周縁的な部分での興奮(と、一種の感動)は別として、本書そのものもとてもようござんした。時事的な情報源としてばかりではなく、正しくオーセンティックな「紀行文」として繰り返し堪能したいものがあります。

別のところに書いたのを、こちらに保存しました。

「アラブの春」関連の御本を色々めくっためも(1)


中東民衆革命の真実 ──エジプト現地レポート (集英社新書)
ちょうど1年前くらいに出された御本。今のところ、田原さんのお見立てで外れたとこは無いように思う。占いではないのだからあたりもはずれも無いんだけど。この本は1/2以上がエジプトのルポ的描写なのですが、「世代間の断絶」「宗教勢力は脅威ではない」「アラブ政治のアメリカ離れ」あたりのキーワードはどこを見ても共通してるように思いました。「同胞団のムルシーが大統領になってるじゃないか、あれは脅威ではないのか」とおっしゃるひともいるかも知れませんが、アルジャジーラなどを通じて観察する限り、老若男女がふつうに「ムルシーのばか」「もっかい選挙やれ」的なことを堂々と顔出しして述べている超ヘルシーな光景が繰り広げられており、今のところはまずまず良い感じではないか、と思うわけです。

田原さんは「労働系勢力」が盛り上がるんじゃないかと言ってる。「いまさら左翼運動もないだろう」とか言ってはいけない。分厚い若年層の多くが失業者なわけだから、嫌も応も無しに/よくもわるくも、どうしたって部分的にはそういう感じになるのではないか。


革命と独裁のアラブ
アラブの春っぽいのなら何でもめくろうと思ってめくったんですけど。 何でもめくるもんじゃないですね。


アラブの春は終わらない
わたしは特に「アラブ好き」というのではないし、「アラブ嫌い」というのでもありません。アラブに限らず、どこのお国や地域に対しても、アパートの隣人に対するのと同じような感じにしてられたらいいのになあと思っており、そして(心身ともに)そのようにふるまえるよう、意識して訓練づけるようにしています。あなたの部屋の壁の色は何色ですか、カーペットは何色ですか、どこにお勤めですか、昨夜は何を食べましたか、誰と過ごしましたか……といったことを、根掘り葉掘り聞かない。でも問わずとも教えてくれたなら、そしてそれが面白かったなら、「うんうん、それで?」って続きを尋ねると思います。これはそういう御本でした。

タハール・ベン=ジェルーン氏の小説は何冊か読んでいます。モロッコ出身で、今はフランス在住ですけどモロッコもやっぱりアラブの春以降ややあって、改憲とかしてたりしてるんですね。ファーティマ・メルニッシが(あ、彼女もモロッコの人だ)「変化に必要なのは軍人でも政治家でもなくて詩人」って言ってたけれど、それで合ってる気がずっとしている。

氏の『出てゆく』という小説があって、読み終わったとき、ああこれは最終章が書きたくて書いたんだなあっていう感じを受けるのですが、その最終章について氏は、「出ていった者(移民の皆さん)には帰る権利があるのだ、と言いたかった」というような事を、先ごろどこかのインタビューで仰っていました。


アラブ革命の衝撃 世界でいま何が起きているのか
タイトルはこうでも内容はアラブ革命についてではなく、アラブ革命に至る歴史的・地理的・文化的&宗教的背景の解説的な御本でした。でもなんか少しづつずれてるっていうかずらされてるっていうか。元米軍人で物書きのラルフ・ピーターズというひとが書いた「ぼくの考えた新しい中東地図」っていうのがあるんですが、前述の佐々木氏の御本のしょっぱなで出て来たそれがこの御本のしょっぱなでも取り上げられていて何かもうどうしたら良いのか分からなくなった。

いや、「アラブの春」に「西洋」なり「西洋列強」なり「欧米」なり「アメリカ」なりが関わってないとは思わないし、どう関わっているのかっていうのはちゃんと検証した方が良いよね、っていうことなら同意するけど、でもそれはラルフ・ピーターズ連れてきてやることじゃないだろう。

あとがきで氏はご自身の「アプローチ」を「板垣雄三・東京大学名誉教授のそれ」と言い、「板垣氏が築き上げてきた中東学の方法を批判的に継承しなければならない」と言い、それが「あとからくる世代に属する者の責務」と言ってるのでああそうですかお呼びじゃないですね部外者がたいへん失礼しました、って思いました。

氏の『大川周明 イスラームと天皇のはざまで』は嫌いじゃない。漂うやむにやまれぬ感が何ともいえずわるくなかったですよ。批判的に継承するなら、そっち方面でがんばってほしいと思いました。

別のところに書いたのを、こちらに保存しました。

「ふつう」

四つだか、五つだったかの夏。昼寝から起きたら、祖母と母がお風呂に入れてくれた。

「先におあがんなさい」と言われてお風呂から出ると、祖母と母がお風呂上がりに使うヘアブラシや、手鏡なんかが用意してあった。

手鏡は、普段は子供の手の届かないどこかにしまってあるもので、だから「しめた!」と思って手鏡を畳にじかに置いて、その上にまたがって「うーむ、なるほどー」ってやってたら、お風呂を終えて出てきた祖母と母に「キョオコォォォオッ!!!アンタ何やってるのーーーーーッ!!!」と、ものすごい勢いで叱られた。そしたらそれまで何も言わずにうちわ使ってた祖父が「ああ、叱るな叱るな」って言って、

「自分のことはちゃんと知っときたいよなあ、ふつうだよなあ」

って言った。

おじいちゃん大好き愛してる、って思いながらぱんつをはいた。