「アラブの春」関連の御本を色々めくっためも(3)


アラブ革命はなぜ起きたか 〔デモグラフィーとデモクラシー〕


〈アラブ大変動〉を読む――民衆革命のゆくえ
この2冊はほとんど同時期に並行してめくりました。トッド氏は人口学とか人類学とかがご専門、酒井氏が編者になってる方のは皆さんアラブをご専門とするいわゆる地域研究のひとびとで、エジプト、レバノン、シリア、イラク(酒井氏のフィールドですね)、ヨルダンなどの動向であるとか背景であるとかにふれられてある。

トッド氏の方については、そもそもそういうジャンル(人口学?人口統計学?)について良く知らないので面白い。面白いんですが「アラブ革命も予言していたトッド」とか帯に書くのやめてほしいです。「えーと」、ってなるじゃないですか。わたしは小心者なので、そういう煽り方されるとそれだけで忌避したくなるんですよ。読んでるぶんにはおもしろかったですけどもね。インタビューを元にした御本なのでさっさとめくれるし。巻末に「トッド人類学入門」と題した訳者の方による用語解説的なものがついてくる。便利ですね。でもそんなのがないと読み解けない御本って不便ですね。不便ともちがうか。何ていうんだろ。

出生率であるとか識字率(考えてみれば、ツイッターにしてもフェイスブックにしても字が読めないことには始まらないものですねえ)であるとかの推移から、氏は「(アラブの春は)予測できてた」的な、分かってた分かってた、いつか起こるとおれには分かってた的なことを言っている。

逆に酒井氏が編者になってる方の御本では「予測不可能だった」「思ってもみなかった」「驚いた」というような言葉が並んでいる。ムバラク政権はそれなりにうまくやってきていると研究者達は解釈していたのだから「革命」を読みきれなかったのも道理です、と、編者の酒井氏はまとめている。そうなのか。

でもそれ以外は、皆さんてんでばらばらに言いたいことを言っている。9.11直後は皆さん口を揃えて「イスラームは平和な宗教です」ってそればっかり仰っていたような記憶がありますが、「のろいが解けた」のならそれは良いことだと思いました。来年、再来年になれば皆さんもっとばらばらになっていると思う。ばらばらと言えば、シリアについての章にあった青山弘之氏の一文がなんかすごかった。要約すると、

・アサド政権は道義的には受け入れ難い
・だがそのような政権を有効にしてしまっているのは周辺のアラブ諸国と欧米のせい
・政権も反体制勢力も安易に内政干渉を呼び込んでて無責任

その「無責任が、民衆の意思から「革命」を切り離し、その精神を死に至らしめることを忘れてはならない」んだそうです。何と言うか、どこからつっこんだらいいのか途方に暮れるんですが、もうちょっと落ち着いて良く考えてからものを言ってほしいと思った。

まあそんな感じで総勢12名の研究者の皆さんが色々言っている。ただねえ、その12名の研究者のうちアラブ出身者はたったの1名なんですよね。うーん。まあいいや。それはそれとして、カイロ大学で日本語を教えているエジプト人の先生の寄稿エッセイが、そのエッセイ「だけ」がきらきらと輝いてみえましたよ。

そんなわけで「アラブの春」関連めくったよめもはこれでおしまい。全部図書館で借りたのですが、ジェルーン氏『アラブの春は終わらない』と『中東戦記』は、あらためて購入しました。

某協会理事の水谷周氏が編纂した御本、あれもめくっておこうかとは思ったんだ。思ったんだけど、図書館になかったからめくってません。

別のところに書いたのを、こちらに保存しました。

「アラブの春」関連の御本を色々めくっためも(2)

「アラブの春」関連本をめくっためも・その2。


エジプト革命―アラブ世界変動の行方 (平凡社新書)
自宅−代々木上原間1往復で読み終えられるだろうとふんでたんですけど駄目でした。思いのほかみっしりしていた。今の今までお名前も存じ上げないひとの御本です。エジプト近現代史がご専門とのことで、ここ1世紀くらいの間に起きた反乱、騒乱(あるいは成就しなかった革命)のたぐいをおさらいしたりするんですけど、そこにイランも含めて語ってらっしゃるのはなんかこう、新鮮。これ、別の御本のご案内的な意味で書かれたものだそうなので、じゃあその別の御本ってどんなものなのだろと思ったらこんな御本だった:

アラブ革命の遺産 エジプトのユダヤ系マルクス主義者とシオニズム

「革命」って、そっちの「革命」の話かよ!

うーん。えー。おもしろいのかなあ。でもなんかややこしそうだなあ。社会主義と共産主義にはさわっちゃだめ!ってモスクのせんせいも言ってたしなあ。でも「ユダヤ系エジプト人」にはさわってみたいかな。例えばこんなのとか:

お若いエジプト人映画監督が作成(中?)のドキュメンタリー・フィルム。1948年にイスラエルが建国されるまでは10万人(とも、8万人とも)のユダヤ系エジプト人がカイロやアレキサンドリアにコミュニティを作って住んでいたんだよ、っていう…、ナセル氏がエジプト国内のユダヤ系エジプト人を追い出したり国籍剥奪したりしてなければ、今頃はシオニズムに対する強力なカウンターになってたかも知れませんですね。皆が皆、嬉々としてイスラエルに移住してったわけでは無い。

でもそれは今からでも遅くないはずですね。何て言うんですかね。「アラブの春」というのが何か良いことをもたらすとしたら、それはこういうフィルムがおひさまの下で堂々と作られ、そして堂々と人口に膾炙してゆくことではないか。うーん。やっぱり読んでみようかな『アラブ革命の遺産』。でも社会主義と共産主義にはさわっちゃだめ!ってモスクのせんせいも言ってたしなあ。エジプトのユダヤ系マルクス主義者vsインド共産党毛沢東主義派だったら、どっちの方が強いかなあ。


現地発 エジプト革命――中東民主化のゆくえ (岩波ブックレット)
ムバラク氏退陣までの約3週間の現地報告そして記録。あ、これ良いですね。なんかここまで、もろもろ「思い入れ」の強い感じの御本をめくっちゃったんでぐったりしちゃったんですけど。これ良いです。


中東戦記 ポスト9.11時代への政治的ガイド (講談社選書メチエ)
これ、直接「アラブの春」を扱ってるわけではなく2001年9月11日前後のアラブ諸国訪問記なんですけど、副題が「ポスト9.11時代への政治的ガイド」ってなってるし、「アラブの春」って「ポスト9.11」で合ってますよね、と思ってめくったのですが。訳注やら訳者コラムやらがやたらと凝っていて、なんだこれかっこいいな、と思って訳者の名前を見たらピカチュウ、なんだよサトシじゃないか!

ぜんぜん気付かなかった。うかつだったわー。

に、しても他の皆が皆そろいもそろって「おれのはなしをきけえ」となっているこのタイミングで、サトシは10年前の(それも学術書ではなく)紀行文を翻訳することをチョイスしてしまうのですね。何かもう言葉もないわ。かっこいいなあもう。

と、いうような周縁的な部分での興奮(と、一種の感動)は別として、本書そのものもとてもようござんした。時事的な情報源としてばかりではなく、正しくオーセンティックな「紀行文」として繰り返し堪能したいものがあります。

別のところに書いたのを、こちらに保存しました。

「アラブの春」関連の御本を色々めくっためも(1)


中東民衆革命の真実 ──エジプト現地レポート (集英社新書)
ちょうど1年前くらいに出された御本。今のところ、田原さんのお見立てで外れたとこは無いように思う。占いではないのだからあたりもはずれも無いんだけど。この本は1/2以上がエジプトのルポ的描写なのですが、「世代間の断絶」「宗教勢力は脅威ではない」「アラブ政治のアメリカ離れ」あたりのキーワードはどこを見ても共通してるように思いました。「同胞団のムルシーが大統領になってるじゃないか、あれは脅威ではないのか」とおっしゃるひともいるかも知れませんが、アルジャジーラなどを通じて観察する限り、老若男女がふつうに「ムルシーのばか」「もっかい選挙やれ」的なことを堂々と顔出しして述べている超ヘルシーな光景が繰り広げられており、今のところはまずまず良い感じではないか、と思うわけです。

田原さんは「労働系勢力」が盛り上がるんじゃないかと言ってる。「いまさら左翼運動もないだろう」とか言ってはいけない。分厚い若年層の多くが失業者なわけだから、嫌も応も無しに/よくもわるくも、どうしたって部分的にはそういう感じになるのではないか。


革命と独裁のアラブ
アラブの春っぽいのなら何でもめくろうと思ってめくったんですけど。 何でもめくるもんじゃないですね。


アラブの春は終わらない
わたしは特に「アラブ好き」というのではないし、「アラブ嫌い」というのでもありません。アラブに限らず、どこのお国や地域に対しても、アパートの隣人に対するのと同じような感じにしてられたらいいのになあと思っており、そして(心身ともに)そのようにふるまえるよう、意識して訓練づけるようにしています。あなたの部屋の壁の色は何色ですか、カーペットは何色ですか、どこにお勤めですか、昨夜は何を食べましたか、誰と過ごしましたか……といったことを、根掘り葉掘り聞かない。でも問わずとも教えてくれたなら、そしてそれが面白かったなら、「うんうん、それで?」って続きを尋ねると思います。これはそういう御本でした。

タハール・ベン=ジェルーン氏の小説は何冊か読んでいます。モロッコ出身で、今はフランス在住ですけどモロッコもやっぱりアラブの春以降ややあって、改憲とかしてたりしてるんですね。ファーティマ・メルニッシが(あ、彼女もモロッコの人だ)「変化に必要なのは軍人でも政治家でもなくて詩人」って言ってたけれど、それで合ってる気がずっとしている。

氏の『出てゆく』という小説があって、読み終わったとき、ああこれは最終章が書きたくて書いたんだなあっていう感じを受けるのですが、その最終章について氏は、「出ていった者(移民の皆さん)には帰る権利があるのだ、と言いたかった」というような事を、先ごろどこかのインタビューで仰っていました。


アラブ革命の衝撃 世界でいま何が起きているのか
タイトルはこうでも内容はアラブ革命についてではなく、アラブ革命に至る歴史的・地理的・文化的&宗教的背景の解説的な御本でした。でもなんか少しづつずれてるっていうかずらされてるっていうか。元米軍人で物書きのラルフ・ピーターズというひとが書いた「ぼくの考えた新しい中東地図」っていうのがあるんですが、前述の佐々木氏の御本のしょっぱなで出て来たそれがこの御本のしょっぱなでも取り上げられていて何かもうどうしたら良いのか分からなくなった。

いや、「アラブの春」に「西洋」なり「西洋列強」なり「欧米」なり「アメリカ」なりが関わってないとは思わないし、どう関わっているのかっていうのはちゃんと検証した方が良いよね、っていうことなら同意するけど、でもそれはラルフ・ピーターズ連れてきてやることじゃないだろう。

あとがきで氏はご自身の「アプローチ」を「板垣雄三・東京大学名誉教授のそれ」と言い、「板垣氏が築き上げてきた中東学の方法を批判的に継承しなければならない」と言い、それが「あとからくる世代に属する者の責務」と言ってるのでああそうですかお呼びじゃないですね部外者がたいへん失礼しました、って思いました。

氏の『大川周明 イスラームと天皇のはざまで』は嫌いじゃない。漂うやむにやまれぬ感が何ともいえずわるくなかったですよ。批判的に継承するなら、そっち方面でがんばってほしいと思いました。

別のところに書いたのを、こちらに保存しました。

「ふつう」

四つだか、五つだったかの夏。昼寝から起きたら、祖母と母がお風呂に入れてくれた。

「先におあがんなさい」と言われてお風呂から出ると、祖母と母がお風呂上がりに使うヘアブラシや、手鏡なんかが用意してあった。

手鏡は、普段は子供の手の届かないどこかにしまってあるもので、だから「しめた!」と思って手鏡を畳にじかに置いて、その上にまたがって「うーむ、なるほどー」ってやってたら、お風呂を終えて出てきた祖母と母に「キョオコォォォオッ!!!アンタ何やってるのーーーーーッ!!!」と、ものすごい勢いで叱られた。そしたらそれまで何も言わずにうちわ使ってた祖父が「ああ、叱るな叱るな」って言って、

「自分のことはちゃんと知っときたいよなあ、ふつうだよなあ」

って言った。

おじいちゃん大好き愛してる、って思いながらぱんつをはいた。

自然現象と宗教的規律について

「断食」と五輪がバッティング!! イスラム教選手、日中飲まず食わず? メダルいらない?
今年のロンドン五輪は7月27日から8月12日まで。この日程がイスラム教を信奉する選手にとって、ちょっとした問題となっている。“聖なる月”とされるラマダンとちょうど重なるのだ。

(……)

当然、イスラム教国家は国際オリンピック委員会(IOC)に対して、「フェアではない」として、ラマダンと五輪の日程が重ならないように働きかけてきた。しかし、五輪の日程は以前から決まっていたため、変更はされなかった。今回の五輪で、イスラム教の選手は約3000人に上るとみられている。日没から日の出までの夜間は“食いだめ”ができるとはいっても、真夏の暑いさなか、日中に一切飲まず食わずというのはかなりのハンディだ。

とはいえ、もともとラマダンには柔軟性がある。妊産婦や病人、乳幼児など、事情がある場合は断食が免除されるほか、旅行者も除外の対象となる。この“旅行者”を拡大解釈して、ラマダン中に旅行に出かけ、“断食逃れ”をすることも実際には可能なのだ。

(……)

一方で、イスラム教を信じる選手の中には「ラマダンはとても神聖な期間であり、たとえ断食中でも、むしろ集中力が増してパフォーマンスが向上する」として、精神的な側面からプラスにとらえている人もいるという。もちろん、戒律を厳格に守りながらメダルを獲得するようなら、イスラム世界から大喝采を浴びることは間違いない。しかし、実際のところ、断食とメダルの両立は難しいだろう。中にはラマダン期間を自主的に五輪後に“延期”する選手もいるほどだ。

いずれにせよ、信仰を取るかメダルを取るか…。イスラム教を信じる選手はこの夏、“究極の選択”を迫られることになりそうだ。(五輪取材班)

「信仰を取るかメダルを取るか…。イスラム教を信じる選手はこの夏、“究極の選択”を迫られることになりそうだ」。いったいどこの誰が何を根拠に何を誰に迫っているというのか。世の中のみなさんは(ムスリムか非ムスリムかに関わらず)、ムスリムがなにをどうしたら満足するのかな。なんで「信仰を取るかメダルを取るか」みたいな話になってしまうのか。どっちも取ったらいいですよ。それでいいじゃないですか。

「あいつはメダルを取った」的なことを言い出すひとは必ずいるだろうから、そういうバカは無視してがんばってくださいと思います。「信仰」を取ったら取ったで(それにしてもこういうひとたちの言う「信仰」とは何を指すのだろう)、「あいつは原理主義者だ」的なことを言い出すひとも必ずいるだろうし、そういうバカも無視してがんばってくださいと思います。

その上で、とりあえずアスリートは「肉体労働者」に分類しても決して間違いではないだろうから、それだけでもう断食の免除対象なのではないか。「旅行者」に分類する、というのも記事文中には出てきているけれど、地元出身の選手だっているだろうし。と、思ったらロンドンの夏は日の出から日の入りまで17時間もあるんですね。ひー。

そういうふうに、環境のほうが慣行から大いに逸れて極端な場合は、「日の出」「日の入」といった自然現象にこだわるよりも、むしろ「1日5回(ないし3回)の礼拝」という宗教的な規律の方を優先させる、というふうに習いました。たとえば神のおはからいで、あしたの朝から太陽が昇らない日々がやって来たとしても、定められた礼拝は礼拝としてやるんです。太陽が沈まなくなったとしても、それでも礼拝は礼拝としてやるんです。定められた「日の出の礼拝」を実践すれば、空の太陽が昇らなかろうが心の太陽は昇るんです。定められた「日の入の礼拝」を実践すれば、空の太陽が沈まなかろうが心には月が昇るんです。

あと、今ちょっと手元で調べられないのだけれど(調べろ)、「新しい(見慣れない)知識を見つけても避けたりしないで身につけなさい。知識はもともと全部ムスリムのものだから」というムハンマドの言葉、わたしは「かぼちゃのハディース」の次くらいに好きです。オリンピックなどの舞台に出かけてゆくムスリムは、色々な意味で新しい知識を獲得しに出かけてゆくひとびとだと思うので、がんばってくださいと祈っています。

別のところに書いたのを、こちらに保存しました。