さわりのところ(2)


Sufism: A Beginner’s Guide (Beginner’s Guides)
チティック先生の『スーフィズム:ビギナーズ・ガイド』。の、以下は4章のさわり(これもまた、ほんのさわり)のとこ。さわりのところ(1)はこっちからどうぞ。


第4章 セルフ・ヘルプ
スーフィー導師たちはコスモスと魂の整合性ある描写を差し出し、人々を神に連れ戻す軌道を説く。人間の置かれた状況についての彼らの見方は、ハディースによって要約できよう –– 「この世界は呪われている。その中にあるものも呪われている、神の想起を除いては」。世界もその中にあるものも、神的な根源から切り離されている。太陽が沈んでしまったがために歪んで暗く、混乱している。しかしこの同じ世界、同じものが神のしるしであり、昇る太陽の輝く光線であるともみなされるのである。西としての世界は呪われているが東としての世界は神の想起という歓喜の歌であり、もの見る人々をしてあらゆるものの幸福の賛美にさし招く。

自分や、あらゆるものの中に神を認識する方法を学ぶには、絶えず神を意識する方法を学ばねばならない。他の人々なら真夜中に覆われているととらえるだろう光景の中に、昇る太陽の輝ける光を見出さねばならない。イスラムとスーフィズムにおけるあらゆる実践が、あるひとつのゴールに集中している –– すなわち、人々が自らの目を開けてものを見るということである。数々のコーランの章句と預言者に帰された言葉が、豊富なイメージと表現をもってこのゴールにつて説いている。そのうち最も簡潔で、かつスーフィー導師たちがしばしば言及しているのが、神への道はtazkiyat an-nafsである、というものである。通常、このフレーズは「魂の浄化」と訳されている。

このフレーズはコーランの章句に由来する。若干おこがましくはあるが、以下の通り訳出してみよう:「魂と、それを形づくった御方において。それの堕落と、それの神への畏怖とを示唆した御方において。それを浄める者には成功があり、それを葬り去る者には失敗がある(91章7-10節)」。この章句によれば「成功」をおさめるのは、自らの魂を浄める人々のみである。コーランの文脈はこの成功が来世に関するものであり、現世の成功とは無関係であることをはっきりと示している。魂を浄めることができず、かわりに自らの魂を「葬り去る」 –– まるで自らの魂を土の下に隠してしまったかのような –– 人々に成功はない。むしろあちら側の最後の故郷へ移るとき、自分たちはこちら側で成功していると考えるか否かに関わらず、彼らは不幸を味わうことになる。

コーランの章句の翻訳がすべてそうであるのと同じように、この翻訳にも問題がありあくまでも仮訳に過ぎない。まず第一に、tazkiyaを「浄める」と訳してしまうのは実に紛らわしい。どれを参照しようがあらゆる辞書にはtazkiyaには2つの意味があることが示されている。どちらの意味の方がより基準的かについては辞書の編纂者たちは意見の一致をみていないにしても、である。この動詞にはひとつには浄化であったり、洗い清めるといった意味があり、そしてもうひとつには拡大、増加といった意味がある。それゆえtazkiyat an-nafsには、コーランの解説者たちも認める通り、nafsを「浄化する」ともnafsを「拡大する」とも理解できるのである。解説者たちの大部分が、明らかに神学上の理由から一番めの意味を強調する。結論からすればムスリムたちの主要な義務は自らを神に隷従させることにあり、それは神の意にそぐわないことを避けない限り成立し得ない。これを「浄化」と呼ぶことはできるだろう。しかし同時に魂もまた発達し、神の援助の下に大きく成長する必要があることも明白である。この成長をもたらす働きもまた、tazkiyaと呼べるのである。このように2つの事柄が生起する必要がある。そしてそのどちらも –– 浄化と増加 –– が tazkiyaの一語によって意味されているのである。あるいは浄化について、それは魂の成長と拡大と同時に起こるものであるととらえることもできよう。かくしてひとつの語が持つふたつの意味が合致するようになる。

これらふたつの意味の相補性を、tazkiyaという単語の使われ方の中にいくらか見出すことができる。辞書には種を植える、家畜を育てるといった場合にこの語を用いることだできると示されている。どちらも浄化や増加という意味ではないが、しかし2つの意味が混合した何かではある。大地に植えられるときの種はあらゆる異物から浄められ、土、水、日光といった神の恩恵を浴びる。これは種が強まり成長するための手段を用意するということである。これは種を「浄化」するのでもなければ「増加」しているのでもない。むしろ種が育ち、みのり、その可能性を引き出せる状況に置いてやるということである。このようなわけでtazkiyat an-nafsには、「魂の浄化」ばかりではなく、育ち、成長していけるように魂を神の恩寵へと開け放つことをうながすという意味もあるのである。訳すならば「魂を耕す」とした方が、より良いといえるかもしれない。

人間のセルフ
動詞tazkiyaは、コーランにおいて12回使用されている。通常、主語は神にあり人間は目的/対象である。これらの章句の大部分は、ちょうど引用した章句が示すように、プロセスにおいて重要な役割を果たすのが人々であるにせよ、その要点は人々を浄化し祝福するのは神の恩恵と導きであるということである。これとは対照的にnafsという語は、コーランにおいては約300回使用されている。多くの章句において、この語はシンプルな再帰代名詞であり、そのため人間にも神にも、そして他のものにも使用することができる。その再帰的機能からすれば明らかに「自己(セルフ)」と訳すのが最もすぐれている。再帰代名詞としてではない語の使用もコーランには見受けられるが、しかしこの用語は「魂」とするよりは「自己(セルフ)」とした方がまだ良訳であるといえる。例として、コーランにはイエスが以下の言葉を用いて神に呼びかけたとする章句がある:「おお、神よ。あなたはわたし自身の中にあることを知っている。だがわたしはあなた自身の中にあることを知らない(5章116節)」。加えてコーランではこの語を、どのような名詞に再帰させることもなく、単に一般的な人間自身を指すのに使用してもいる。こうした文脈において翻訳者たちは「自己」とするかわりに大抵の場合「魂」と訳している。つまりコーラン中のnafsという語は常に「自己」でありながら、しばしば「魂」と翻訳されている。

「魂」と「自己」に関する問題のひとつに、人々がこれらを、特に前者を具象化する傾向にあるというのが挙げられる。言い換えるならばまるで魂が、肉体がそう思われているのと同様の、有形で具体的な物質量を伴った「モノ」であるかのように語りがちだということである。あるいは一例として、人々はしばしば人間には魂があるか否か、あるいは動物には魂があるか否かについて議論することがある。こうした議論において魂は決まって有形かつ具体的な物質量として想定される。これは彼らが言うところの「科学的な」条件において魂を説明しようという際には特に顕著となる。科学的思考とは、そもそも近視眼的なものである。イスラムのテキストで使用されているnafsのような用語には対処のしようがない。少なくともアラビア語ならびにコーランの語法はあらゆるものがnafsを持つのを当然のこととして要請している以上、アラビア語で魂の存在について議論するのは、特にnafsという語を用いてしまうと馬鹿げたものとして聞こえるだろう。

コーランの用語ではあらゆるものがnafsを持つため、人類がnafsを持つか否かは問題とはならなり。問題となるのはこれである:人間のnafsとは何か。またそれは神のnafsとどう区別されるのか。あるいは動物のnafsや岩のnafsとどのように違うのか?神がnafstazkiyaする必要がないのは何故なのか?神がどの天使にも動物にもnafstazkiyaを実践するよう命じていないのは何故なのか?ここでペルシャのことわざが正しいことを言っている。「冷たい鉄を打つのは」、ペルシャ人たちは言う、「ロバの耳にヤースィーンを聞かせるようなものだ」。コーランの第36章にあたるヤースィーンは、常に特別な力と天恵を秘めているといわれてきた。ロバのnafsは人間のnafsとは明らかに異なる。もし人間の耳にコーランを聞かせてやったなら何かしらの役に立つかもしれない。しかしロバはずっとロバのままだろう。

では実際に人間のnafsについて、明確にはいったい何が異なるというのだろうか?この問いに対するイスラム的な基本解は、この質問に対する精密かつ正確な回答はそれを受け取る私たちの能力の範囲内には存在しない、と言うよりも人間のnafsに特有の本質とは、その深い根本のところでは特有の本質を持たないということである。これについては、いくらか説明が必要である。

「鏡の中の自分を見る」と言うとき、私たちは肉体的なフォルムの反射を指す意味で言っている。しかし私たちが鏡の中に私たち自身を認める、というまさにその事実が、単なる肉体的なフォルムよりも、多くは自己に向けられていることを示している。アラビア語の単語nafsと英語のselfは物理的な肉体と自身という意識を含めてその他あらゆる「私たち」全体を指している。しかし、この他に何が含まれるだろうか。人間が自分で考えている以上の何かである、何故なら「無意識」を持っているからだとする考え方は今や当然となっている。しかし私たちは、自己とそれ以外を区別する正しい境界線はどこに引かれているのだろうか?自己について語ることの真の問題とは、私たちが私たちについて何も知らず、大ざっぱな間に合わせの感覚以上には何ひとつ知り得ないという点にある。自分たちが何ものであるか知っていると思うなら、それは間違っている。

ほとんどの人は自分自身については考えさえもしていない。そしてこれがコーランがその重要な用語のひとつであるghafla、すなわち不注意という語によって指摘しているというのはほぼ明白である。自分自身について考えを巡らせた上で、自分が何者であるかという問題を解決したと言う人があれば、その人は混乱しているか嘘を言っているかのどちらかである。著名な小説家ウォーカー・パーシーがその著書“Lost in the Cosmos: The Last Self-Help Book”で取り上げているのもこの点である。色々な意味において、この書は街角の書店の棚に必ず置いてあるあらゆるセルフ・ヘルプ系書籍のパロディである(が、パーシーは自著がそうしたたぐいの書籍と勘違いされるのを草葉の陰で喜んでいるに違いない)。

(中略)

預言者の知識
人間が自分たち自身を知ることができない。この点については、ムスリムたちにとってより納得がいく証明のひとつに、神が預言者たちを遣わしたという事実がある。もし人間が自分たち自身を知ることができるなら、何が自分たちにとり良いことなのか、また悪いことなのかを自分たちだけで見出せたはずである。しかし実際のところ人間たちは、身体ひとつに対してさえ何が良く何が悪いのかよく分かってはいないのである。ましてや自分たちの全体像については言うまでもない。私は何も一般大衆のみに限って述べているのではなく、これは高度な専門家たちすべてにあてはまる。たとえば私たちにとり何が良く何が悪いのか、医師たちの意見は相当に高い頻度でころころと変わる。

預言者たちの目的は人間に対し、自分というセルフ全体にとり何が良く何が悪いのかを伝えることにある。たとえ始まりがあるにせよ、セルフには終わりはない。預言的な知識はセルフをその永遠性において取り扱う。この観点からは身体的な死は、それが重要な境界線を示すものではあるにせよ、むしろ取るに足らない。死後の人々には、もはや神の導きを選び取るか拒むかの自由はない。ただ神が望むがままに、神に仕えるのみである。何故ならこれ以上無知を隠れ蓑に、セルフを「埋める」がままにしておくことが出来なくなるから、ということになっている。

預言者たちが人間にもたらした導きは、人間が何であるかについてはさほど語ってはおらず、人間が何でないかについて語るものである。人間という存在は限定的かつ固定的な、完結したアイデンティティを持たないし、また人間は絶対にそうした存在ではあり得ない。もしも人間に最終的な限界に達することが可能であるなら、それは神と寸分違わない(それは不可能である)か、あるいは現実の経験に終止符を打つということにおいてである(これも不可能である)。はっきりと述べれば刹那の生を生きると同時に、変化のプロセスを永遠に生きるのが人間なのである。人間は自分たちだけでは今日という日のその先を見通すことはできない。ましてや死後のこととなれば尚更である。預言的な知識はセルフにとっての善悪を教える。このセルフには終わりも、特定のアイデンティティもない。


ところでウォーカー・パーシーの”Lost in the Cosmos: The Last Self-Help Book”、どなたか訳していただけませんか。

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チティック先生の『スーフィズム:ビギナーズ・ガイド』。の、さわりのところ(1)

去年の秋ごろ、「西洋のスーフィズム認識に見る諸問題--宗教と近代を巡る言説の変遷を通して」という文章を目にしました。西洋におけるスーフィズムに対するある種の礼賛の姿勢は、裏返しのイスラモフォビアではないかといった問題提起がなされていました。とても興味深く読みました。

しかしこうした「イスラムとスーフィズムは別もの」的な認識のされ方、もっとありていに言ってしまえば「消費」のされ方というのは何も西洋に限ったことばかりではないかなと思います。ここでは、具体的には日本語圏内のことを指して言っています(加えて日本語圏内では、イスラムそれ自体にリーチする前置きとしての「西洋のイスラム研究はだめだ」言説の帯域幅がなんかやたらと長大な気がしています。何なのでしょうね、これ)(加えてよしんば「西洋のイスラム研究はだめだ」が仮に真であったとしてもですよ、それが「日本のイスラム研究はだめではない」の証明には全然ならないんですよ?ともゆっておきたい)。

それはまあともかくとして、とりあえずウィリアム・チティック先生の、

Sufism: A Beginner’s Guide (Beginner’s Guides)
これのさわりの部分を以下に置いておきます(ほんとうに、ほんのさわりです)。「<イスラム>とは別カテゴリの何かとして<スーフィズム>を偏愛する西洋人の存在」に加えて、「<スーフィズム>は<イスラム>とは別カテゴリの何かであると主張するムスリムの存在」にも同時にふれておられるのが◎です。


第1章 スーフィーの道
ペルシャ東部ブーシャーンジュ出身の、アフマドの息子アリーと呼ばれた師が、いったい「スーフィズム」が何であったのかを知る者は本当に少なくなったと嘆いたのは今から1000年以上も前の出来事である。彼はアラビア語でこう述べている。「今やスーフィズムは、名ばかりで実体なきものになり果てた。だがかつてそれは、名など持たぬ実体そのものであった」。

昨今の西洋では、その名はより知られるようにはなった。しかしその実体は、かつてのイスラム世界におけるそれよりもはるかに不明瞭になっている。名はラベルとしては役に立つ。だが実体とは定義にも解釈にも、書籍の中にも見出し得ないものである。私たちの時代とアリー・イブン・アフマド・ブーシャーンジュの時代 –– ちょうど「スーフィズム」と名づけられるようになった多種多様の現象が、イスラム社会の形成に影響を及ぼし始めた時期 –– の間にある断絶は際立って深い。たとえ実体の探究に踏み出したとしても私たちは、かろうじてその痕跡をなぞる以上のことは不可能かもしれないと肝に命じるべきであろう。

ある名称を別の名称に置き換えるというのは、スーフィズムの実体の探究を回避するための簡易な手段のひとつではある。私たちはしばしばスーフィズムについて、たいていの場合「イスラム的」という形容詞を語頭に付け加えた上で、「ミスティシズム」だとか「エソテリズム」だとか、あるいは「スピリチュアリズム」である、と聞かされる。こうしたラベルは方向性を示す分にはいいだろうが、しかし歴史上スーフィズムと同一視されている多種多様の教義と現象を言い表すにはあまりにも粗雑であるし、また同時にあまりにも狭隘に過ぎる。これではブーシャーンジュの念頭にあっただろう実体について示唆する以上の何かをもたらすことは決してできないし、人々が深い考えもなしにスーフィズムを便利なカテゴリーに放り込んで済ませてしまうのを助長するという意味では、手助けどころかむしろ妨害にすらなりえるだろう。こうした代替の名称を使用する以上はその正当な理由を示さねばならず、そのためには新たな名称の詳細かつ慎重な定義と分析を提示しなければならない。そして私が上述した3つの用語は、どれもおそろしく漠然としている点で悪名高いものばかりである。仮に十分な定義を提示できたとしても、なぜそれが「スーフィズム」の代替として適切なのかを説明する必要がある。これではスーフィーや学者たちの記述を、自分たちの定義を正当化するために取捨選択するといった方向に導かれかねない。自分たちの定義の実体には近づけるかもしれないが、それはブーシャーンジュの語った実体とは別物であろう。

より見慣れたラベルをあてがってスーフィズムを飼いならそうとするよりも、むしろ私たちは、飼いならされ定義づけられることを拒絶する何かがスーフィーの伝統の中にあると認めるところから出発すべきなのである。スーフィズムにはその他の伝統 –– カバラやキリスト教神秘主義、ヨーガ、ヴェーダーンタ、あるいは禅など –– と同種の類似性があるという示唆が有益な場合もあるだろう。だがこうした連想が、多少なりともスーフィズムそのものに接近するための手助けになるかと言えば、必ずしもそうではない。

そもそもSufismsufi)という単語にしてからが、そのアラビア語原義をかえりみれば、イスラム文明における用語としては問題を含んでいる。それは数カ国語をまたいで広範に使用されていたとはいえ一般には、今ほどに幅広い意味を持たされていたわけではなかった。現在のこの注目度の高さは、それ自体が西洋の学者たちの著作に大部分を負っている。カール・エルンストがその優れたスーフィズム研究書の導入部において指摘した通り、この単語の名声はイスラムのテキストによってではなく、むしろ英国人のオリエンタリストたちによって与えられたものである。彼らは自分たちにとり魅力的で、自分たちの嗜好に合致したイスラム文明の多様な側面に言及するための、またイスラムという宗教にまつわる否定的な固定観念 –– そうした固定観念を喧伝したのもしばしば彼ら自身だったのだが –– を回避するための用語を必要としていたのである。1

イスラムのテキストにおいてはsufiという単語が何を意味するかについての合意は存在せず、著述家たちは常にその意味とその正当性について議論をたたかわせている。この単語を肯定的な感覚で使用する人々は、預言者ムハンマドを理想像として人間の完成を目指そうとする幅広いアイデアやコンセプトに関連づけた。否定的な感覚で使用する人々は、これをイスラムの教えの様々な歪曲と関連づけた。著述家がムスリムであればほとんどの場合、この単語に言及する際にはより含みのある姿勢をとっており、心底からこれを受容するでもなく、かといって非難もしていない。

現代のスーフィズム研究は、主要テキストに見られるこの単語に関する意見の相違を反映している。この名称が意味するものが何であるのかについて学者たちは互いに同意しておらず、その定義も解釈も彼らの研究の数だけ存在する。ここで私自身の定義を提供して混乱を深めることはしないが、しかしこの単語自体は使用するものとする。代替を用いるよりはましだろうというのがその理由である。ともあれ私の目的はあくまでも名称の背後にある実体に到達することであり、月を指さす者たちの系譜を示すことにある。

イスラムの文脈
西洋においては、特定のスーフィーの教えや実践に親しんではいるものの、スーフィズムとイスラムの関連性については無視するか否定するか、あるいは偶然以上のものを認めない人々に出くわすのはそうめずらしいことではない。スピリチュアリティと美の高貴なる源泉、などとスーフィズムを熱狂的に称賛する書籍も見かける。しかしイスラムについてはかろうじて触れていればいい方で、それも西洋が中世の頃から未だにひきずるステロタイプな用語によっている。一般にありがちなスーフィズムに対するこうした見方を強化するのが、スーフィズムに反発する多数の現代人ムスリムたちの反応である。このようなムスリムたちにはスーフィズムが「迷信の生き残り」または「文化的後退」、あるいは「真のイスラム」からの逸脱に見えている、と、イスラム文明についての偉大な歴史家H. A. R. ギブが半世紀も前に指摘した通りである。スーフィズムの実体にとりわけ敏感であったギブは、こういった態度はイスラム世界発祥の「純然たる宗教的経験の発露を抹消」しようと決意しているかのように見える、と論じている。2

要するに多くの人々が、ムスリム・非ムスリムに関わらず「スーフィズム」は「イスラム」とは異なるものだと –– 「スーフィズム」「イスラム」がどう定義されるかは別として –– 考えている。だがスーフィーと呼ばれた最初期の導師たちが9世紀(イスラム暦3世紀)に出現して以来、彼らは常に自分たちはイスラム的伝統の中枢と真髄を語っているのだと主張し続けているのである。彼らの視点にいくばくかの光を当ててみようというのが、本書における私の最初の課題である。イスラムにおけるスーフィズムに、彼らはどのような役割を課したのだろうか?現代にこの問いを立てるのは無意味だと考える人もいるかもしれないが、そうではない。何故ならスーフィズムの伝統を語る人々 –– 少なくともイスラム世界の中にいる当事者たち –– のほとんどは、今なお変わらぬ理解を保持しているからである。

初期のテキストでは、その他の無数の専門用語と同様に、同一の導師に関連づけられた「スーフィー」「スーフィズム」という単語についての数多くの定義がなされている。3 ひとつまたはそれ以上の、これらの定義を手始めにするのも可能ではあるが、スーフィズムは「純然たる宗教的経験の発露」に等しい、と述べたギブは正しかったと示すに留めておく方がよほど有益な場合もあるだろう。言い換えれば初期のスーフィー導師たちは自分たちについて、イスラムの伝統を活気づけている精神の代弁者であると考えていた。彼らの視点に立てばこの精神が生きている限り、たとえどこであろうとイスラムは自らの精神的・道徳的な理想に鋭敏であれるだろう。だがこの精神が衰えれば衰えるほどイスラムは、たとえ生きながらえたとしても色あせた無味乾燥なものとなるだろう。こうしたスーフィズムとイスラムの精神の同一視は、預言者の言葉として有名な「ガブリエルのハディース」に予見されている。この言葉の内容を考察することはスーフィズムの実体の、イスラムの歴史上に名を残しているその他の実体との相対的な位置づけに有用である。

このハディースによれば、預言者とその同輩たち数名が一緒に座っているところに男が現れていくつかの質問をした。男が立ち去ると預言者は、これが宗教(din)を教えるためにやって来た天使ガブリエルであったことを同輩たちに告げた。ガブリエルの問いと預言者の答えに概要されている通り、イスラムという宗教には3つの基本的な側面があると考えられる。たとえこれほどはっきりとした簡潔な概要がコーランのどこにも書かれていないにせよ、イスラムの教えの源泉であるコーランに親しんでいる者ならこの3つが、コーランの不変のテーマであることを認めるだろう。その3つとは「服従(islam)」、「信仰(iman)」、そして「美しい行い(ihsan)」である。4

預言者は服従を「神の他に神はなく、ムハンマドが神の預言者であることを証言し、日々の礼拝を行い、喜捨税を払い、ラマダンの間は断食をし、もしそうするだけの蓄えがあればメッカへ巡礼に行くこと」と定義した。彼は信仰とは「神、天使たち、啓典、預言者たち、最後の審判の日を信じ、善と悪のどちらもがそれにふさわしく裁かれるのを信じること」であると語り、美しい行いについては「まるで神を見ているかのように神に仕えなさい。何故ならたとえあなたが神を見ていなくても、神はあなたを見ているのだから」と言った。

最初の2つのカテゴリー、「服従」と「信仰」は、あらゆるイスラム学徒がよく知るところである。それは宗教の「五行」と「三原則」、あるいは実践と教条、またはシャリーア(啓示法)と教義に合致している。「五行」とは声に出して信仰を証言し、日々の礼拝を行い、喜捨税を払い、ラマダン月には断食をし、メッカ巡礼を果たすことである。「三原則」とは神の唯一性(tawhid)、預言者性、そして終末論を確信することである。注目すべきはハディースにおいて言及されている3つめのカテゴリー –– 「美しい行い」 –– が、その他2つに対する預言者の定義と同様に重要であるにもかかわらず、その意味がほとんど明白ではない点にある。

「美しい行い」がイスラムの最たる代弁者である学者たち、すなわち法学者たち(fuquha’)によって論じられることはない。彼らの自己認識によれば彼らの領域はシャリーア、すなわち五行ならびにムスリムが行う必要のあるその他の実践に限定される。第二の有力なグループである、カラームの科学と呼ばれる教理神学を専門とする神学者たち(mutakallimun)も、「美しい行い」を論じることはない。彼らの関心は三原則の意味を確立し解釈する教理の学問を、明瞭に表現しかつ護持することにある。いずれの学派も –– 法学者も神学者も –– 「美しい行い」を扱う興味もなければ、その能力も欠いているのである。そうしたわけで、解説を求めて彼らによる書籍を参照するのは時間の無駄である。この「美しい行い」を、自らに属する専門領域とするのがスーフィーたちなのである。

偉大なスーフィーの導師たちが、神とムハンマドの人類に対するあらゆるもとめに深くコミットする真正のムスリムであると自らをみなすのは何故かを理解するには、イスラムの伝統におけるこの三分割の論理と、「美しい行い」に課された特殊な役割を把握する必要がある。

最も外的なレベルにおけるイスラムは、人は何をすべきか、また何をすべきでないかを命ずる宗教である。実践の正誤についてはシャリーアによって詳述され成分化されている。シャリーアとは体系化された法の集大成であり、第一義にはコーランの教えと預言者の実践に基づいているが、学者が世代を重ねるにつれ調整と洗練が加えられていった。適切な行為を規定し、またその行為はすべて身体により実践されるものであること、またそれが伝統の継承と認識を支えていることからも、シャリーアはイスラムの「肉体」に例えられる。

より深いレベルにおけるイスラムは、世界と自らについて理解するすべを教える宗教である。この第二の側面は心に対応している。神、天使たち、啓典、預言者といった信仰の対象を方向づけるものであるため、伝統的に「信仰」と呼ばれている。コーランとハディースは絶えずこれらに言及しており、その性質と実体の探索がカラームや哲学、また神学的スーフィズムといった様々な学問の基礎となった。これらの対象を全体像として真剣に探求しようと試みれば、人間の意識の最も深い疑問の探求にならざるを得ない。多くの西洋の歴史家たちが研究し、称賛したイスラムの偉大な哲学者たち、数学者たち、天文学者たち、そして医者たちが訓練づけられていたのは宗教のこうした側面である。同様に、スーフィーたちのうち最も著名な人物たちも、信仰の対象に関する神学的知識に完全に依拠している。

最も深いレベルにおけるイスラムは、あらゆる存在と調和できるよう自らを変容させるすべを教える宗教である。行動も理解も、あるいはその両方を一緒にもってしても、それで人間的に十分であるというわけではない。行動と理解が、人間の長所と完成をもたらすような方法に焦点が合わされている必要がある。この長所とは、神のイメージに沿って創造された原初の人間に固有の、本質的な傾向(fitra)である。イスラムの第一の側面が、神との関係、他者との関係といった相対的な状況において実践されるべき行為と理解されるならば、第二の側面とは自己と他者のそれであり、第三の側面は神への接近を実現するための道である。宗教的生活についての感性を持ちあわせる者ならば誰であれ、この第三も側面に焦点をあてた議論に用いられる様々な用語が宗教の核心であることが即座に認識可能であろう。そこには愛、美徳、完成が含まれている。


1. Ernst, The Shambhala Guide to Sufism (Boston: Shambhala, 1997).

2. “The Structure of Religious Thought in Islam” (1948), reprinted in Gibb, Studies on the Civilization of Islam (Boston: Beacon Press, 1962), p. 218.

3. For a good selection of these definitions, see J. Nurbakhsh, Sufism: Meaning, Knowledge, and Unity (New York: Khaniqahi-Nimatullahi Publications, 1981), pp. 16–41.

4. For a detailed study of the Islamic tradition based on this ancient division into three dimensions, see Sachiko Murata and W. C. Chittick, The Vision of Islam (New York: Paragon House, 1994).

オミッド・サーフィ先生:「文脈、文脈、文脈」

デューク大学イスラム学センターのディレクターをつとめるオミッド・サーフィ先生がOn Being with Krista Tippettというとこに書いている週1連載のコラムがあります。毎週木曜更新なのですが、1/7更新分のはふだんの倍近い長文でした。

ustaz omid
“Ten Ways on How Not To Think About the Iran/Saudi Conflict”。他の要因はすっとばして「宗派対立」で説明しちゃいたくなる誘惑は強い。スンニー、シーアといった宗派の相違が対立の要因に全くなっていないとは言わないが、でも決してそれ『だけ』ではない。本文冒頭にもある通り、要約するとそういうことが書かれたコラムですが、では理解するためには何が必要なのか、

let me share a few points that I think might be useful to keep in mind to think intelligently — and I trust, compassionately — through this latest conflict

「宗教学者の視点から以下をシェアするよ」との仰せなので、ありがたくチートシート的にかいつまんでおこうと思います。

One. In order to understand this conflict, do not start with Sunni/Shi‘a seventh century succession disputes to Prophet. This is a modern dispute, not one whose answers you are going to find in pre-modern books of religious history and theology. Think about how absurd it would be if we were discussing a political conflict between the U.S. and Russia, and instead of having political scientists we brought on people to talk about the historical genesis of the Greek Orthodox Church. …

1. この対立について理解したいなら、預言者の後継者をめぐるスンニー/シーアの対立@7世紀にさかのぼってはいけない。何故ならこれは近代の紛争だから。前近代について書かれた解説を読んだところで(類例がないから)答えは出ない。米国とロシアの政治対立を議論するのに政治学者がギリシャ正教会の歴史的経緯を持ち出したりしたらおかしいよね。

これについてはMarc Lynchの、これが最も簡潔で精緻だ。

The idea of an unending, primordial conflict between Sunnis and Shiites explains little about the ebbs and flows of regional politics. This is not a resurgence of a 1,400-year-old conflict.
“Why Saudi Arabia escalated the Middle East’s sectarian conflict”

「スンニーとシーアの終わりなき宿命の戦いという見立て方は、一進一退する地域政治の説明にはほとんど使えない。これは1400年に及ぶ戦いの復活ではない」。

イラン/サウジの対立に限らずあらゆる中東の対立をすべて宗教のタームで説明しようというのは、「近代的で世俗的な「わたしたち」」とは違う誰か」の非近代的な社会では宗教だけが全ての決定要因となっている、というオリエンタリスト的な妄想。中東理解の要因のひとつに宗教があるというのは否定しないし、ある種の対立においてはそれが第一の要因ともなりうる。ただし絶対に決してそれだけが要因ではない。ほとんどの場合はその他の要因(歴史、経済、イデオロギー、人口動態など)の方がよほど重要だったりする。

Two. Iran and Saudi Arabia are both modern nation states. Yes, they are places steeped in history, but like all nation states they have been carved out of early modern empires, often tinged through painful encounters with colonialism, nationalist movements, and anti-colonial revolts. To make sense of both states, one has to look into geopolitical competition among post-colonial nation states trying to legitimize themselves by claiming the mantle of normativity. There is indeed a competition between both Saudi Arabia and Iran to claim a place of hegemony among Muslim-majority states.

2. イランもサウジアラビアも、どちらも近代国民国家である。もちろんどちらもどっぷり歴史に漬かってはいるけど、植民地主義からナショナリズム運動から脱植民地化蜂起といった一連の痛みを経験しているという点では、近世の帝国から民族国家として独立した他の多くの国々と同じだ。両国を理解するには、「うちはうまくやってますよ」と外面を取り繕い、おのおの自国の正当性を主張する、というポスト植民地国家間の地政学的競争への目配りが必要。サウジとイランの間にも、ムスリムを多数抱える国家どうしの主導権争いがおおいに存在する。

Three. The competition is not merely over Islam. Since the time of the Iranian revolution, Iran has defined itself as adamantly anti-monarchical. Saudi Arabia is ruled through the vast network of the Saudi royal family.

3. 競合は何もイスラムについてのみ限られたはなしではない。革命以降のイランは断固として反君主制を主張している。一方のサウジは、サウジ王族どうしの巨大なつながりによって支配されている。

Four. Sunni/Shi’a is not the same thing as Arab/Persian. Today, Iran is a majority Persian culture with a majority Shi‘a population. One often hears a collapse of Iranian and Shi‘a, but there are Iranian Turks and Arabs in Iraq, Bahrain, and elsewhere who are Shi’a. In fact, a thousand years ago Iran was the center of the Sunni world, and the first major Shi‘i state was in Egypt under the Fatimid Dynasty.

4. スンニー/シーア ≠ アラブ/ペルシャ。現代のイランは最大のシーア人口を抱える最大のペルシャ文化圏。イラン人とシーアをぐだぐだにしているのをしょっちゅう耳にするけれど、イラン系テュルクやアラブはイラクやバーレーンにもいるし、それにシーアのいるとこには世界じゅうどこにでもいる。実際、千年前ならイランがスンニー世界の中心地だったし、最初のメジャーなシーア国家といえばそれはファーティマ朝下のエジプトだったし。

Five. Treating this as a Sunni-Shi‘a dispute actually overlooks the fact that, for most of Islamic history, the majority of Muslims followed an ahl-al-bayt friendly understanding of Islam. The Ahl-al-bayt are the family of the Prophet. Historically almost all Muslims — Sunni and Shi‘a alike — had love, respect, and devotion towards the family of the Prophet. …

5. スンニー/シーア間の紛争としてこれを扱うのは、イスラム史ほぼ全体に渡って大多数のムスリムがアフルルバイト(※預言者の一族)・フレンドリーな見解に従い続けてきた事実の見落としを意味する。スンニー/シーアを問わず、歴史的にはほとんどムスリム全員が預言者とその家族に対して愛と尊敬と献身を捧げてきている。エジプトにおける預言者賛美についての、Valerie Hoffmanによるラブリーなこの一文( Devotion to the Prophet and His Family in Egyptian Sufism )を参照せよ。同様に、後年のアンネマリー・シンメルによる南アジアにおける預言者賛美についての記述( Karbala and the Imam Husayn in Persian And Indo-Muslim literature )を参照せよ。あるいはヌスラト・ファテ・アリ・カーンを聞け。こっちでも聞け。

サウジをしてシーアに敵対させている背景にあるのはスンニーではなく、かの地における公式のイスラムとして定められ実践されているピューリタン的ワッハービズムである。

Six. Context, context, context. We cannot make sense of the strife of the modern world without dealing with nationalism, colonialism, and the oppressive apparatus of modern states. Watch the always amazing Mehdi Hasan to see similar points….

6. 文脈、文脈、文脈。現代の紛争を理解するのに、ナショナリズム、コロニアリズム、抑圧装置としての近代国家などを避けては通れない。これについてはいつでもとびきりすばらしいMehdi Hasanが同様の指摘をしているのを参照せよ(“Reality Check: The myth of a Sunni-Shia War(リアリティ・チェック:スンニー・シーア戦争の神話)”)。

ではなぜ我々はこうした文脈を踏まえての議論に躊躇するのだろうか?20世紀から21世紀の中東の歴史について議論しようとすれば、まずは英仏による植民地主義について、続いて米国による全体主義的・独裁的体制(イラン、サウジ、イラク、パキスタン、エジプト、イスラエル等々)への支援についての議論は避けられない。要するに、中東の不安定化についてリアルに語ろうとすれば我々自身の関与を認めざるをえなくなるというわけ。

Seven. Oil. Never underestimate the role of oil in determining the geopolitical interests of both Iran and Saudi Arabia. This map clearly identifies how the majority of the oil around the Persian Gulf is in Shi’a-dominated areas. …

7. あぶら。イランとサウジの地政学的利益を決定づけている、石油の果たす役回りをなめてはいけない。こちらの地図を参照せよ。ペルシャ湾周辺の主要な石油産出地域はシーア支配領域にあることが示されている。……

Eight. Clearly, it is Iran and Saudi Arabia who bear the brunt of the blame for escalating these hostilities. However, we in the United States should do some long and hard looking into our own culpability. It is the United States that is the largest producer and seller of military arms, and Saudi Arabia is one of the largest purchasers of weaponry worldwide (close to 60 billion dollars during the Obama presidency alone). …

8. 敵意の応酬を激化させている主体があきらかにイランとサウジである以上、その責任はおおいに追及されるべき。しかしながら同時に合衆国のわれわれもまた、自らの過ちをじっくりと厳しく内省する必要がある。世界的には合衆国は軍事兵器の最大の製造国でありかつ輸出国。そしてサウジはサウジで最大の兵器輸入国(オバマ政権下のみでも600億ドル)。サウジの人権侵害を下敷きにした上で、あえて合衆国はサウジへの長期に渡る友好的なポリシーを保持してきた。

と、いうわけでどうにかひとつ、はっきりと言えることが見つかった。つまり、世界で最も不安定な地域に武器を供給し続けていたのでは、世界平和に貢献なんかできるわけがない。

Nine. It is also about internal politics. For example, in Iran, the attack on the Saudi consulate and embassy are an attempt by the Iranian hardliners to exert pressure on the more moderate President Rouhani, who immediately denounced the attacks on the Saudi embassy. …

9. 同時に、これは内政問題でもある。例えばサウジ領事館や大使館への攻撃は、より穏健派寄りのロウハーニー大統領(サウジ大使館攻撃についてただちに非難声明を出した人物)に圧力をかけたいイラン国内の強硬派によるもの。

Ten. So… Who loses? Almost all of us lose. The population at biggest risk are the Syrian people, who have suffered one of the largest human rights catastrophes since World War II. Over 250,000 people have been killed, and over half the population of Syria are either refugees or internally displaced peoples. The famine there is so serious that the residents who have not been able to flee have had to resort to eating grass. …

10. つまり……どっちの負けなの?われわれ、ほぼ全員の負け。人数でいうならまずシリアの人たち。第二次大戦以降、最大規模の人道危機に苦しんでいる。25万人以上が殺されている。シリアでは人口の約半分以上が難民化、あるいは国内避難民化している。飢饉も深刻で、逃げ場のない人々が草を食べてしのいでいる。人類共通の歴史において最も豊かで古い文化を持つシリアが、地域政治の死の爪にかかって孤立している。イランとサウジが主導・協力し合えば長期安定をもたらせたかもしれない。でも今のところ、それは後回しにされている。シリアにおける流血を一刻も早く止めるための何か措置がなされているのかは限りなく疑わしい。

この他の敗者というとイエメンと、イエメンの人々。サウジによるイエメン空爆はほとんど知られていないが、しかし続いている。結果、約20万のイエメン人が人道的災害にさらされている。国連によれば1400万人以上が食料危機の状態にある。ここにも、合衆国の矛盾がある。HRWが合衆国に対し、サウジへの武器輸出をやめるよう声明を発している(参考:Human Rights Groups Criticize U.S. Arms Sale To Saudi Arabia)。

Let’s be clear. No one is suggesting that this conflict has nothing to do with sectarian conflicts. Of course it does, partially.

What I am saying is that Sunnis and Shi‘a have not always hated each other, and have certainly not always killed each other. Like the Palestinian/Israeli conflict, this is not an “ancient and eternal enmity.” It is an earthly, historical conflict, which at times uses the language of religion to justify a political conflict. It has an earthly beginning, and God-willing, it will have an earthly resolution. The lives in Iran, Saudi Arabia — but also in Yemen, Syria, Iraq, and elsewhere — depend on it.

はっきりさせておこう。この対立と派閥闘争は無関係だとは誰も言っちゃいない。もちろん関係している、部分的にはね。

何を言わんとしているかというと、スンニーとシーアは必ずしもお互いを憎み合っているわけではないし、いつもお互いを殺し合っているわけではもちろん、ない。パレスチナ/イスラエル紛争同様に、これは「いにしえより続く永遠の戦い」などではない。これは現世的な、歴史的な対立であり、そこに政治的対立を正当化するために宗教の語彙が時々引っ張り出されてきているに過ぎない。現世において始まったことなら、インシャーアッラー、現世において決着がつけられるはずだ。そこに、イランとサウジアラビア –– に限らずイエメン、シリア、イラク、それ以外にも –– の多くの命がかかっている。

“THE FOOD LAB”というのを

読んでるところで年が明けちゃってもう1週間経ってしまいました。

The Food Lab: Better Home Cooking Through Science

料理本のたぐいは大好きなのです。レシピはわりとどうでもよくって、とにかく読むところがたくさんある料理本が好きです。ごはんについて書かれた文章は読んでいて本当にひたすら楽しい。『ハディース』なんかも、気がつくと食べものに関するところばっかり読んでいる。”THE FOOD LAB”は四捨五入すると1000ページあります。わーい、読むところがたくさんある!

わたしの本棚にあるお料理ジャンルの御本のうち、いちばん分厚いのはもうずっとブオナッシージ翁の『決定版 新パスタ宝典』だったのですが、この御本はそれをあっさり超えていきました。とに、かく、ばかみたいにでかい。ぶあつい。そしてこれが一番重要なのですが、表紙がやたらとかたい。ぶあつい御本ってそれだけで鈍器ですが、この御本は表紙が本当に洒落にならないくらいめちゃくちゃかたいのでもはや鈍器っていうか凶器です。っていうかいざとなったらこの御本でスパイスとか、よゆうで叩き割れると思う。そんな「いざ」はあんまりないと思うけど。

Serious Eatsという、いろいろな意味でハードコアなものすごく気合いの入った料理サイトがあるのですが、そのサイトのディレクターをやっておられるのがこの御本の著者であるJ. Kenji López-Altさんという方。”I’m a nerd, and I’m proud of it.”って始まる序章のページをめくると
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なんかすごいしあわせそうに火炎放射してるおたくがいる。これが著者のKenji。

The Spokefulというポッドキャストの12/17回にFood Science Smackdown: The Food Lab vs. The Sporkfulというタイトルで登場してるんですけれども、

チーズバーガーのチーズは階層的にはどこに配置するのがベストか、みたいなどうでもいいようなよくなさそうな、でもやっぱりおおむねどうでもよさそうなことをものすごい情熱的な早口でまくしたてて「どうでもよくない、人生の一大事」に仕立て上げてるおたくがいる。それが著者のKenji。なんですが、御本の文章の運びもだいたいこんな感じだと思ってください(だから読んでて「うるさい!」ってなります)。合間あいまにゆでたまごがゆであがる水温と海抜の相関だの、七面鳥の焼き時間と温度と焼き上がりの水分含有量だの、そういうのの棒グラフとか折れ線グラフとかが挟まれています。

「レシピはわりとどうでもよい」などと冒頭で書きましたが、でも先日さっそくこの御本の通りにロースト・チキンを下ごしらえしてみたりもしましたよ。非常に具合がよかったです。Serious Eatsのサイト上でも公開されていますが、”Butterflied Chicken” という、なんていうか見ため鶏のひらき?みたいな方法。焼き上がりまでが早い&ぱさつきがちな胸肉もしっとりでした。

調味につかったのはザータルです。うちむらでもらったの。それとオリーブ油をまぜまぜ&ぬりぬりしました。おいしかったです。

あとこのような御本も読んだ。

日本のモスク – 滞日ムスリムの社会的活動 (イスラームを知る)
何か事件が起きたときだけ呼ばれて「へいわのしゅうきょうです」とかなんべんも同じことを繰り返し言わされて、それ以外のふだんはまるっっっきりいないことにされているので、こういうふうに「いるよー」みたいな感じの御本を見るとちょっとよわいです。

それに、こういう「そっとのぞいてみてごらん」みたいな距離の取り方にもよわいです。つまり、良い御本です。