がんばれザカリヤさん

ドイツ在のムスリム指導者数名が、2012年9月に出版されたある御本について批判している。著者はこれに対して反論している。著者のひとはムスリム指導者の養成機関の長を務めるひとでもある。と、いう記事を目にしました。

“Book on Islam ruffles feathers in Germany”

・御本に対する批判は、まずトルコの新聞紙がこれを取り上げて記事として掲載したことで表面化。批判者の皆さんは、御本が「イスラム教において神を信じることは必須ではない」としている、と主張。「善良な人生を送ったひとは誰であれ楽園に迎え入れられる。神を信じる・信じないとは別問題」という記述が批判の対象となった。

・御本の著者はオーストリア人。厳密に言うと、パレスチナ系オーストリア人。ドイツの大学に勤務するイスラム学の教授でもあり、同時にムスリム指導者を養成する組織を率いているひとでもあった。ムハナドさん(著者)は、自分の著書に対する批判を新聞を通じて初めて知った。ムスリムとしての価値観に照らしても、それはちょっと無いんじゃないの、と感じた。「批判なり忠告なりしたいなら、プライベートな場で直接すればいいじゃないか。少なくとも、メディアを使うっていうのはおかしいじゃないか」と、驚くと同時に残念に思った。

・イスラムとは神の愛と慈悲を知り、それを日々の生活の中で実践することであり、そのように生きているひとが「ムスリム」と呼ばれるのであって、神は誰が「信者」で誰が「非信者」か、なんていうことにはこだわらない。と、いうのがムハナドさんの論。

・これに対して、批判者の一人であるザカリヤさんは、イスラムを「慈悲」にのみ限定してしまうのは、宗教の定義としては脆弱でしょ、と言う。信仰あってこその実践なのだから、どちらかが欠けたらまずいでしょ、と。ただ、ザカリヤさんとしてはムハナドさんの論すべてを否定する意図はなく、「イスラムは多元的であり、幅広い意見の相違を認める素地が前提として存在する」、ということについては同意している。ただ、ムハナドさんがひとにものを教える立場にある以上、もう少し慎重に検討した方がいいと思う、という立場。

・ムハナドさんは、自分が責任ある立場にあることは十分に承知している、と言う。その上で、若い世代の人々に「神を畏れよ」とだけ言ったところで耳を貸す者はいない、裁いたり、罰したりする神に興味を持つ者はいない、と言う。また同様に、ムハナドさんは宗教は人間のためにあるものであって、神のためにあるものではないとも教えている。神が気にかけているのは人々のことであって、ご自身の名誉ではない、と、ムハナドさんは信じている。

・ハンブルグ在のラマザンさんは、ムハナドさんに「悔悟を表明し、ムスリムらしく振る舞うように」と呼びかける。同じ批判する側とはいえ、ザカリヤさん的にはこれにも同意できない。「宗教的にも、それは行き過ぎというもの」。悔悟というのは、「悔悟しろ」と命じたり命じられたりしてするものではなく、あくまでも内発的なものだとザカリヤさんは思っている。それにザカリヤさんは、ムハナドさんの解釈はあまり一般的ではないにせよ、彼の意図が善良なものであることを信じている。

・ザカリヤさんは、ムハナドさんは善良な意図を以てこうした議題を提示してくれているのだから、話し合いの土台は盤石であるとも考えている。「とにかく座って、落ち着いてじっくり話そう」。ムハナドさんも話し合いには前向きな姿勢を示している。こうした議論は、「ドイツ在の多くのムスリム達にとっても有益なはずだ」。


感想そのいち:「信仰は大事でしょ」というのは、確かにそれは分かるんだけど、時と場合によっては自分の信仰を神と取り違えちゃいがちになるので、そのへんがむずかしいよな、と思う。

そのに:神様は、あるひとが神様を信じてるか信じてないかを「全く気にかけていない」ということもないと思う。でもそれ以前に神様は、信じてるひとのことも信じてないひとのことも愛している、と「わたしには」確信できる。

そのさん:あるひとが神様を信じてるか信じてないかは「わたしには」全く関係のないことだし、神様とあるひととの関係については、「わたしには」立ち入る権利はまったくもってない。

そのよん:ところでわたしにとって「信仰」というのは、ひとことでいえば「まあなにがあってもなんとかなるよ」という感覚のことである。

そのご:ザカリヤさんがなんだか非常にいとおしい。良いお茶会になりますように。

別のところに書いたのを、こちらに保存しました。

サトシ

・イスラム平和財団、とか同財団理事長のアブドゥル・ラザク・アブドゥッラーさん、とかについては何にも知らないんですけど、「モデレーター 池内 恵 准教授」に惹かれてのこのこ行ってきました。

笹川平和財団主催 中東イスラム政治変動講演会シリーズ 第10回「宗教と政治の間で揺れ動くイスラム世界」

・敢えて柱の陰の席を選んで「サトシ!」ってすることにしました。以前ある姉妹に「わたし、サトシを見てると電信柱の陰から飛雄馬を見ている明子ねえちゃんモードになっちゃうんだよね」と言ったらすごい爆笑されました。そんな、西新宿のビル街のど真ん中でしゃがみ込んでまで笑わなくても、っていうくらい大笑いされてしまった。いや、わたしは本当に学者さんの界隈ですとかはあんまり良く分からないんですけど、それでもハタで見てるとなんかこう……何て言ったら良いんですかねえ。電信柱の陰から「サトシ!」ってしたくなってしまうこの空気感。

・「サトシ!」ってなるこの感じには、もうひとつ理由がある。氏の『書物の運命』ですか、あれの序文に氏のご実家にはテレビが無かった、ていう記述があるんですけれど、「わー、そうだったのか!」ってなったんですよ。わたしのおうちにも、テレビが無かったんです。まあそうは言っても氏のご実家とは違い、わたしのおうちの場合はアカデミックなあれでも何でもなく、単にエコノミックに状況が許さなかったというだけではありますが。

・ラザク氏の講演自体は、うん。まあ。おもしろかったのではないでしょうか。制限1時間に、色々詰め込み過ぎな気もしなくもなかったですが。ジハードであるとか原理主義であるとかイスラム主義であるとかいった用語の問題から、アラブの春だ、移民社会だ、サラフィーだ、ワッハービーだ、ところでシリアどうするの?西側諸国の皆さんはどうするのが良いと思うの?そうそう、イランとサウジの関係、あれは「冷戦」だよね。ところで北朝鮮とシリアとイランって、云々。

・じゃあまあ、今まさにあなたが語ったような、そういった世界状況を踏まえた上で、では「イスラム平和基金」がどういう性格の団体で、具体的にどういう活動をしているのか。ちょっと興味があったのですけれども、そういうお話にはなりませんでした。

・ヒズブ・タフリールのお話も少し出てきました。「皆さんには荒唐無稽に聞こえるだろうけれども、全てのイスラム国家をまとめてカリフ制を復興する、と、本気で訴えているグループがある。OICですらあんなにバラバラなのに、そんなこと無理に決まってる」。ラザク氏はヒズブ・タフリールについて「主張はラディカルだけど暴力的ではない」団体、と評していた(概ね同意するけれど、「暴力的ではない」については、わたしはきもち保留したいものがある。英国ではそうとう下火にはなったものの、米国ではキャンパス内やモスク等での勧誘行為が、そろそろ問題視され始めている)。

・とりあえず乱暴にまとめるとラザク氏は、ムスリムの多様性、というのを訴えたかったようだった。ジハーディスト、ファンダメンタリスト、イスラミストというような語には抵抗感を示していらっしゃったけれど、ラディカル、コンサバティブ、それにショーヴィニストという語はばんばん使用しておられた(ここらへん、ちょっと難しいなと思った。わたしは、例えばあるグループがイスラム団体を自称している時にそれを「ラディカル」とか「エクストリーミスト」とかというふうに置き換えてしまっても問題無いものなのかなあ、などと考えてしまったりするんですよね)。

・講演後に、池内氏が10分程度おしゃべりなすったんですけども。「宗教としてのイスラムの理想するところと、現実のムスリムの行為は分けて考えるべき、というのはそれはそれで重要な指摘なんだけど、とは言うものの、そもそもそれって果たして分離可能なのかどうか。だって宗教としてのイスラムにしたって、解釈して実践するのは同じ人間なわけだから」っていうのは、ちょっと柱の陰で笑いました。全然ぶれないなサトシ。

・前のめりに「文明の対話」スバラシイ!世界はひとつ!皆同じ人間!みたいな人物がこういう講演会のモデレータだと、最初からプロセスも結論も決め打ちになってしまって、何これつまんない、となるところなんですけれども。何というか池内氏の、そういう「敬虔な嘘」を敬して遠ざける際の手際の良さは、もうほとんど芸術である。

・シリアについて、ラザク氏はちょっと悲観的なお見立てだったのだけれども。それについても池内氏は、「民衆蜂起に対するアサド政権の対応を見れば、その初期の段階で現体制は既に正当性を失っていると判断している」「『アラブの春』を経た後のアラブについては、もう少し期待しても良いんではないか」、と、僕自身はそう考えてます、というようなことを付け加えていた。あ、ご見解に同意だわ、というのと同時に、こういうふうに「僕自身はそう考えてます」という話し方をする学者がもっと増えてくれたらいいのになあ、と思いました。そうなってくれれば、わたしだってこうもサトシサトシ言わずに済むのですが。

・ところで開会挨拶で、「会場には内閣総理大臣安倍晋太郎氏の奥方にもご列席頂いております」ってやっていました。うーん、笹川平和財団。

別のところに書いたのを、こちらに保存しました。

healing the wounds

IMG_0876

何となく、ふたたび見たくなったので引っ張り出してみました。9/11の少し後くらいに配布された小冊子。

ハムザ・ユースフさんやザイド・シャキールさんといったカナダ/北米在のムスリム(非ムスリム)が中心になって運営していた、IHYA PRODUCTIONという学習サークル?みたいなのが当時あって(今はザイトゥーナ・インスティテュートを経てザイトゥーナ・カレッジという名称の、アラビア語やイスラム法学のカレッジになっている)、「ブックレットを作ったよ!1号はすぐに無くなっちゃったから送ってあげられないけれど、2号を楽しみに待っててね!」みたいなアナウンスがあったかと思ったら9/11が起きた。それで届いた2号が↑だった。

めくると最初の2ページは、簡単な祈祷のトランスリテレーションとその翻訳。神様の御名(属性)を唱えましょう、「latifun latifun lutfuhu da’iman lutfu(優しい方、優しい方、かれの優しさは尽きません)」というような。

次のページはカナダ在ムスリムの巻頭言、その次のページには「彼らと、悲劇の犠牲者となった全ての人々に捧げます」として、この小冊子を作成した時点でムスリムであることが確認された犠牲者の方々のお名前が列記されている。

それからいくつかのコラムと、あとは実践的なアドバイスなど。「ムスリム女性ならびにアラブ的外見の皆さんのための安全策」として、「一人で出かけない」「何かあった時のために、お互いの家を避難場所とする」「びくびくしながら歩いていると逆に危険なので、意識して胸をはって堂々と歩く」みたいなこと。

それからアフガン侵攻に対する苦言、アフガンの、主に女性を支援する団体の連絡先、推奨図書の紹介など。

コラムのいくつかは今読んでも、何と言いますか、示唆に富んでいる。「私達のコミュニティは以前から正しい導師を必要としている、いないことはないけれど、アクセスが非常に難しい」「とにかくヘイトスピーチは絶対に拒否すること。金曜礼拝のたびにキリスト教を悪に仕立てて、キリスト教徒が大切にしている儀式や祭礼を呪うようなイマムは避けるように」「いったい『メリークリスマス』と、隣人の祝日が善いものであるよう祈るというだけのふるまいを、何度禁じれば気が済むのだろうか」

以前に、某大学の学生さんが卒論だか何だかのためにインタビューをしたい、というので協力しかけたものの、やめたことがある。この小冊子を見せたところ、「でもそういうムスリムって主流じゃないですよね」みたいな、「少数派でしょ」「一般的じゃないでしょ」みたいなことを言われて、何か無性に腹が立って依頼を断ったのだった。

彼には彼の都合があるんだろうけれど、わたしにもわたしの都合があるし、彼の都合に合わせるわけにも行かないし。一生おまえの考える「主流」で「多数派」で「一般的」なムスリムを探してろ、と思いました。おしまい。

別のところに書いたのを、こちらに保存しました。

ほんのりとしたタキーヤ風味

イラン系アメリカ人で物書きのレザ・アスラン氏が主宰するAslan Mediaというウェブサイトがあって、今週はミュージシャンのアニ・ゾンネヴェルドさんがゲストコラムを書いていた。

Hey Islamophobes and Radical Muslims: Get A Room!

アニさんの本業は音楽制作。2001年9月11日以降は宗教系の活動にも力を入れていて、”interfaith marriage”、お互いに異なる宗教を保持しつつ結婚生活を送る人たち(に加えて、ゲイカップル)を支援するNPOを主宰している。そのようなわけで彼女のところには、

・イスラムは女性が人前で歌うことを禁じている
・っていうかイスラムは音楽を禁じている
・っていうか異なる宗教を持った者同士の結婚なんてあり得ない
・っていうかゲイカップルなんてあり得ない
・っていうかムスリムなんてあり得ない

……と、いう具合のメールやら手紙やらがひっきりなしに届くのだそうで、イスラムフォビアとラディカル・ムスリムってほんとに良く似てる、いっそ一緒にどこかに部屋を借りてお互いに直接やり合ってたらいいじゃないの、一生その部屋から出て来ないでね!っていうようなことを書いていらっしゃる。「Get A Room!」というのは字面通りだと「部屋を探せ」だけれど、「別のところでやってくれ」というほどの意味。「居場所を見つけなさいよ=ここはあなたたちの居場所じゃないわよ」的な。

中には、彼女の歌声は「間違った周波数」であり「悪魔と、悪魔に奉仕する人々を打ち負かすのに正しい周波数は432ヘルツ」であり、「正しい周波数の音楽でないと奇蹟は起きない」云々といったメールがあったりもしたんだそうだ。笑った。いや、笑えない。いや、でもちょっと笑った。いるからなあ、こういうの。

その他にも、イスラモフォビアなひとから届いたメールなどが全文引用されている。「ムハンメダン、ムハンメダン」と連呼しつつ呪いじみた文を連ねた最後に、「正しい宗教はキリスト教だけ!」って書いてある。笑った。いや、笑えない。いや、でもちょっと笑った。いるからなあ、こういうの。「正しい宗教はキリスト教だけ!」の「キリスト教」を「イスラム教」に差し替えれば、ほーら。いるじゃないですか、そういうの。


“interfaith marriage”というと、あるトルコ人女性とアメリカ人男性のカップルを知っている。ふたりは、彼が米軍人としてトルコの米軍基地に勤務していた時に知り合って恋に落ちた。結婚しましょうそうしましょうとなったとき、女性側の親族一同は猛反対した。ここまではよくある話なんだけど、ここからがかっこいい。彼女のお母さんが立ち上がり、「ホジャに話を聞きに行く」と言い出した。普段は家で礼拝するお母さんがモスクに行くというので、それだけでみんなが驚いたのだけれど、一緒に行く、というお父さんに向かって「あなたは来ないでいい。わたしが一人で行く」と言ったので、ますますみんなが驚いた。

一人でモスクに行って、帰ってきたお母さんは彼女に「ホジャがおまえと話がしたいと言っているから行きなさい」と言い、彼女は「どうせ反対されるんだ」と思いながらモスクに行った。するとホジャは「あなたには行きたいところへ行く権利がある。あなたのお母さんはあなたの結婚に賛成している。どうしたらあなたの結婚生活がうまく行くか、助言が欲しいと言っている。そこであなたに助言する」。助言というのは以下の三つ :

・夫が酒を飲みたいと言ったら用意する
・夫が豚肉を食べたいと言ったら料理する
・夫に尋ねられない限り、イスラムの話はしない

猛反対していた親族一同については、お母さんが壁になってくれた。結婚式は挙げなかったけれど、男性側のホームタウンでのお披露目パーティには、お母さんがたった一人で飛行機に乗ってやってきて参加した。彼女の結婚話が持ち上がるまで、モスクにも行ったことのなかったお母さんが!

「わー、お母さんかっこいい!」
「そうよトルコの女はかっこいいわよ、でも男は全然かっこわるいわよ。キョーコもモスクに深入りしちゃ駄目よ。女を閉め出してモスクで男同士で昼間からだべってる連中なんてロクなもんじゃないって、ふつうに考えたら分かるでしょ」
「お、おう」


宗教実践のひとつとして「タキーヤ」というのがある。アニさんも、上記のコラムで少しだけ「タキーヤ」について触れている。彼女はそれを、「イスラムの道を進むためには嘘も許される」とされている、というふうに説明している。そして「これを理由にイスラモフォビアたちは、全てのムスリムが嘘つきであると主張する」、と言っている。

「タキーヤ」は、日本語では一般に「信仰の秘匿」というふうに説明される。信仰実践の、はじめのはじめに「シャハーダ」というのがあり、これは「信仰の告白」というふうに説明されるだいじなふるまいだけれども、害が生じるだろうと合理的に予測される場合には、信仰を公言しないことも許される、という、例えば↑に出て来るホジャの助言なんかも大雑把に言ったらこの「タキーヤ」に相当する部分があるだろう。

この「タキーヤ」というもの、教科書的には主にシーア派の教条に分類されるのだけれど、実際にはこんなふうに入り交じっていたりするものであるな、と、ふと思い出したのでした。

と、いうか、ここからが「シーア派」でここからが「スンナ派」、などというふうに、きっぱり線引きがあるかのように錯覚してるのは、イスラム教の1400年間の歴史のうちここ最近の現代人だけだろうとも思うけれど。

別のところに書いたのを、こちらに保存しました。

御本のめも:『アルファフリー』

『大旅行記』も『アラビアン・ナイト』も、ちょこちょことつまみぐい的な読み方しかしてないし、なんかよろしくないねと思って「積みっぱの東洋文庫を残さずきちんと食べよう」というのを、新年の、まあ目標にしようと決めてみました。

ので、とりあえず『アルファフリー』から読んでみました。


アルファフリー〈1〉イスラームの君主論と諸王朝史 (東洋文庫)

全2巻。おもしろうございます。「サラディン」じゃなくて「サラーフ・アッディーン」だよー、と、いうような、地名や人名にさえ慣れてしまえば、読み進めるのに特に予備知識みたいなのを要求されることもない(し、巻末にシンプルで分かりやすい訳註がついているのであんまり気にしなくてもいい)。するする読めたのは著者のアッティクタカーさん自身が、最初に「いたずらに弁論術を誇示し、修辞法をひけらかし、かえって難しい表現にしてしまうのを避けた」と言っている通り、もったいぶった感じの言い回しなんかがほとんどなく、文章自体がするすると書かれてるおかげだ(もちろん、翻訳のひともすごい)。

のっけから、「『マカーマート』とかもわるくはないけど、あれよりおれの書いた本の方がよっぽど役に立つよ!」みたいな、これはまあお約束というか、最初にこういう立場表明みたいのをするのは様式美の一種なのだろうけれど、でもその仁義の切り方が何だかわるびれてなくてかわいいです。だいたいの場合、現世に対するなんだか呪いみたいな感じになってるのをよく目にするような気がするのですけれども(それがわるいというわけでもないですけれども)。おまけに、『マカーマート』のついでに『ナフジュ・アル=バラーガ』について、「あれはアラビア語の勉強するにはいいんじゃないの」とか書いてるのには笑いました。

『ナフジュ・アル=バラーガ』というのはイスラム教第四代目の正統カリフでもあり、シーア派の初代イマムとも数えられているアリーさん(ムハンマドの娘婿にあたる)が書いた(とされている)訓戒の書、あるいは名言集的な、特にシーア派のひとびとにとっては、例えばスンナ派の『ブハーリー』であるとか『サヒーフ』であるとかといった、そういう感じの扱われ方か、あるいはそれ以上の、位置づけとしては一般に非常に「ありがたい御本」なのだけど、その『ナフジュ・アル=バラーガ』について、

……一部の人々は、信者らの長アリー・ブヌ・アブー・ターリブの言葉を集めた『ナフジュ・アルバラーガ』という書物に傾倒している。英知や訓戒、説教、タウヒード(一神論)、勇気、禁欲、高尚な志などが学べる書物である。少なくともこれは、正則アラビア語の使い方、および修辞法に役立つ書物である。

「少なくともこれは、正則アラビア語の使い方、および修辞法に役立つ書物である」。自分の御本については、

……私の考えているところをよく理解してもらえるよう、明白な表現を用いて説明した。いたずらに弁論術を誇示し、修辞法をひけらかし、かえって難しい表現にしてしまうのを避けた。私は、しばしば雄弁さや修辞の技をひけらかすのを好んだがために、それがあだとなって、目的が曖昧となってしまった著作の書き手たちを見てきた。

「修辞とかとっぱらって分かりやすく書いたよ」ってアピールしたその同じ口で。やだ、このひとおもしろい。

後はどこそこのなにがしという王様はこう言った、とかどこそこのなにがしという宰相がああ言った、とか色んな逸話と、歴代カリフのお話と、それから「統治者の条件とは」というお話と、まあ聞いていて飽きないです。こういう人って好きだ。ドラマティックをこじらせてない感じがよろしい。

「アッティクタカー」というのは、「流暢」とか「饒舌に話す」とかという意味なのだそう。ぴったりだなあと思ってこれにも笑いました。ティクタク。

別のところに書いたのを、こちらに保存しました。